ライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』Obsession(1962年)読了。文庫の帯は「あまりにも有名なゴダール映画の原作、本邦初訳!」という煽りで、自分もそっちの興味で手に取ってみました。ヌーヴェルヴァーグといえばこのお方、映画評論家の山田宏一先生の詳細な解説付きです。
退屈な結婚生活に倦み疲れた中年男が、パーティーを抜け出してベビーシッターと一夜を共にしたことから、逃亡者生活へと転落してゆく・・・という基本的な筋立ては映画と同じですが、逃亡生活に出て以降の展開は全く違っています。映画版と違っている要素に原作の決定的な個性あり、実に興味深いノワール小説の逸品でありました。
作者はライオネル・ホワイト。ホワイトの小説は初めて読みました。主人公が限界状況を乗り切っていく原動力となる内なる狂気が文章でことさら強調されることなく、また決定的な事件が時折大胆な省略を伴ってさらりと描かれているのが独特だなあと思いました(故に、本作は中編程度のコンパクトな長さに収まっています)。ホワイトはスタンリー・キューブリック『現金に体を張れ』の原作者でもあります。(原作『逃走と死と』Clean Break 1955年)現金強奪の顛末などさすがの緊迫感で素晴らしい。
それにしてもキューブリックとゴダールとは奇妙な組み合わせですが、実はゴダールの映画版にはなくて、原作にのみ存在する要素、原作の決定的な個性と関係があります。原作は中年男が10代の小悪魔に振り回されて悪の道に堕ちてゆくお話で、そう『ロリータ』風味があるのですね。キューブリックと言えばナボコフ原作の『ロリータ』を映画化した人物。映画版の『気狂いピエロ』のジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナだとアンモラルな『ロリータ』風味は感じられませんが、解説によるとゴダールは当初シルヴィー・ヴァルタンとリチャード・バートンの組み合わせで映画化しようとしていたようです。
本作のロリータ、主人公を破滅へ導く17歳のアリーの危険度はかなりのもので、ごろごろ転がる死体の大半は彼女の犯行です。殺人者であり、ヤクザな人脈に通じているアリーが危険な人物であることを分かっていながら、性的な魅力に離れられず、主人公マッデンは妄執(原作の原題Obsession)に囚われたまま破滅に突き進んでいきます。しかしこの男はこの男で、単に小悪魔に翻弄されるばかりではありません。逃亡生活の中で身分を偽り別人になりきってリゾート地で不動産取引を行う周到な行動力、やくざ者に捕まり拷問される場面の態度、最後の大仕事をやり切ってしまうところなど、実は犯罪者としてのポテンシャルは十分だったのではないかと思われます。主人公が落とし前を付けるラストの描き方など、ジム・トンプスンとはまた違った狂気が滲み出ていて実に良いです。ライオネル・ホワイトの小説はもっと読んでみたいなと思いました。
余談になりますが。遠山純生氏のTwitterによると、原作は74年にフィンランドでも映画化されているとのこと。またモンテ・ヘルマンがこの原作を脚本化して映画化を目論んでいたそうです。ヘルマンの遺作『果てなき路』(2010年)には「業界でフィルム・ノワールというのは禁句だぞ」なんて台詞がありました。ヘルマン自ら禁を犯そうとしていたのか。ちなみにヘルマンの短編『スタンリーの恋人』(オムニバス『デス・ルーム』挿話)の主人公はスタンリー・キューブリック。ゴダールとヘルマンは共にヴェンダースの『666号室』に出演・・・。何なのこのサイクル。