最近読んだ本で、まだブログに書いていなかったものをまとめて書き記しておきます。
斉藤倫『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(2019年)
子供向けに書かれた、現代詩のアンソロジー。ただ詩を並べるだけでなく、語り手と少年の対話を通して「言葉」とは何だろうと考察を重ねていく興味深い内容になっている。実は語り手と少年の間には物語があって、読み進むと次第に二人の関係が明らかになっていくという趣向。読み物として工夫を凝らした部分だけど、個人的にはここにいささか作為的なものを感じてしまった。本書が掲げる、言葉の響きそのものが放つ自由な魅力と相反するような気がして。子供たちはこの辺どう感じるんだろうな。表紙と挿絵は高野文子。
シャーロット・チャンドラー『ビリー・ワイルダー 生涯と作品』 (2002年)
名匠ビリー・ワイルダー監督の評伝。本人はもちろん、関係者への豊富なインタビューも交えた貴重な一冊だ。インディペンデントな映画作りで盛り上がるドイツ時代(スタッフにはシオドマク、ウルマー、ジンネマンの名も)のエピソードなど実に面白い。監督の友人グルーチョ・マルクスも随所に登場。
ワイルダーといえばあの丸っこい顔(和田誠さんのイラストの影響もあるのかな)、コメディが得意という楽しげなイメージ。本書ではその陰にある痛み(戦時中の話や上手く行かなかった映画について等)も赤裸々に語られている。関係者のコメントも必ずしも誉め言葉だけではないのが、ファンとしてはとても興味深いところ。
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(2022年)
早送りやファスト映画といった鑑賞スタイルを良しとする人々の背景を丁寧に分析した力作ルポルタージュ。不快な内容だったけどこれは読んで良かった。本書では映画は「鑑賞」ではなくもはや「コンテンツ消費」なのだと位置づける。「セリフで全部説明してほしい人たち」「失敗したくない人たち」「好きなものを貶されたくない人たち」といった章題を見てるだけで頭が痛くなってくるけど、それが現実なのだという本書のレポートは実に説得力があった。
映画鑑賞のスタイルに絶対は無いので、早送りしようが飛ばして見ようが本人が楽しければそれでいいとは思う。しかし映画鑑賞と言う無駄の極みみたいな娯楽にまでコスパ、タイパを求めるというのはどうかしてると思う。
せっかちな早送り、飛ばし視聴が好まれるという本書の現実を見るならば、映画はどんどん短く、派手な見せ場のダイジェスト版みないなフォーマットになっていきそうだ。しかし実際は映画の上映時間はどんどん長くなっている。観客の解釈度レベルが低くなり馬鹿丁寧な説明が必要になってきたことと、CGの発達で何でも見せることができるようになって、今やオールドハリウッドの省略や暗示の技、巧みな話術による90分以内で物語るフォーマットは完全に崩れてしまった。現在は140分位が当たり前かな。これなんかはどうなんだろう。友人と話題を合わせるための視聴は早送りでいいけど、満を持しての映画館鑑賞ならば(大枚はたいてじっくり楽しむ姿勢なので)長くてもいいという感じなのかな。うーむ。
村上春樹とイラストレーター(佐々木マキ、安西水丸、和田誠、大橋歩)のコラボレーションに焦点を当てた一冊。初期三部作の愛読者なので、春樹といえばマキ、なんだけど、こうしてイラスト単体で見ると大橋さんが実に良い。悪夢をスケッチしたみたいな可愛さと怖さがあって。
妻にお薦めの小説を聞いたらこれを渡された。彼女が同時代的に読んで思い入れがあるであろう一冊なんで、ちょっと緊張しながら読んだ。主人公はジェンダーを押し付けられるのを嫌い、自らを透明化するため「僕」と称する女子高生。妻の高校時代が想像できるようで興味深く、でも常にややこしい思考がアタマの中で渦巻いてる感じは今もあんまり変わってないんじゃないのと思ったり。まあそれはこっちも一緒か。あの断定と逡巡の繰り返しは若さ故、という訳でもないなと思う。
主人公の面倒くさい感覚は意外にすんなり飲み込めた。作者の文章に力があるからだろう。思えば、自分も群れるのは嫌、他者に干渉されず孤独も楽しみたい人間だからかな。
「十七歳の彼女らは優しさがほしいとは露ほども思ってはいなかった。優しさとか思いやりとかいったお為ごかしをぬぐいさったところで、毅然と立っていられる強さがほしかった。」
「失うべき何ものもリストには見当たらないのに、それでも失うことを恐れるのはゼロより少ない数を知った知性の弱みだと裕生は思う。」