Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『セルピコ』(シドニー・ルメット)

 

 シドニー・ルメットは50年代に『十二人の怒れる男』でデビュー以来長いキャリアを誇り、ゼロ年代に至るまで順調にフィルモグラフィーを更新し続けた。(2011年没)。『狼たちの午後』や『オリエント急行殺人事件』等TVの吹替洋画劇場でお馴染みだったせいか随分見ているような気がしていたけど、フィルモグラフィーを調べたら、日本公開作品の三分の一も見ていないのだった。3月はひとりの監督作品を集中的に見ようと思っていたので、シドニー・ルメットを選択。ソフトも配信もなさそうなのが多いけど、1ヶ月で何本見られるかな。それにしても、ルメットってシネフィルの人たちを刺激するような作風じゃないからだろうが、X(Twitter)でその名を見かけることはほとんどない。

 

 という訳で、シドニー・ルメット監督『セルピコ』(1973年)鑑賞。中学生の頃、TVの吹替洋画劇場で見て以来の再見。賄賂が罷り通る警察内部の汚職を告発した若手警官フランク・セルピコの孤独な闘いを描く実録もの。

 

 70年代NYの荒れた風景、劇伴ほとんど無しの生々しい空気感、無駄な装飾を剥いだルメット演出のドキュメンタルな迫真力を堪能した。汚職警官たちの面構えもいい。脇役にはM・エメット・ウォルシュ、F・マーリー・エイブラハムの顔も。

 

 主演アル・パチーノ。一匹狼の雰囲気(融通なんて効かせてやるかよといった風情の頑なな態度)、孤独な瞳の輝き、個性的なファッション、キレ演技と正にハマり役。本作は社会派ルメットの映画であり、かつきちんとアル・パチーノの個性を生かしたスター映画にもなっている。

 

 すっかり社畜と化した今の目で見ると、組織で孤立する主人公の姿にはやるせない気持ちになる。セルピコが彼女と別れた辺りから飼い犬が姿を見せなくなるので気になっていたが、最後に随分と成長して出てきたのでホッとした。あの犬だけはセルピコに寄り添っていてくれたのだなと。

 

 ところで、映画は瀕死のアル・パチーノ(髭あり)が搬送される場面から始まる・・・ってデ・パルマの『カリートの道』と同じじゃないか。ルメットとデ・パルマ

 

 確か『プリンス・オブ・シティ』は当初デ・パルマが監督するはずで、降板した後引き継いだのがルメット。隠しマイクを付けて囮捜査するエピソードが『ミッドナイトクロス』に流用されている。デ・パルマとルメットはパチーノ、ショーン・コネリーマイケル・ケインらキャストでも共通点があるな。そんな気づきも。

 

 

 

『コールガール』『パララックス・ビュー』(アラン・J・パクラ)

 

 監督アラン・J・パクラ+撮影ゴードン・ウィリスの傑作スリラー『コールガール』(1971年)を久々に再見。

 

 失踪した同僚を探す男(ドナルド・サザーランド)と事件の鍵を握るコールガール(ジェーン・フォンダ)がNYの裏通りを彷徨う。暗さを基調としたウィリスの撮影が絶品で、全編を覆う不穏な雰囲気がたまらない。こういうのこそ劇場で見たいなと思う。

 

 アメリカ映画のサスペンス・スリラーは、60年代反共パラノイア・スリラーからケネディ暗殺を経て、70年代はウォーターゲート事件で疑心暗鬼に陥る政治パラノイア・スリラーに移行。『コールガール』は政治スリラーではないけれど、覗き、盗聴、敵は内にあり、と正にその系譜に連なる作品で、不穏な空気が画面に充満している。

 

 途中で真犯人を明かしてしまうことで分かる通り、本作の主眼は犯人探しには置かれてない。けれど、探偵映画的な面白さは充分。ハードボイルド探偵風のサザーランド、屈折した女性像を体現するフォンダ、ヒモ役でギラついた演技を見せるロイ・シャイダーモリコーネよろしく女性コーラスを使用した物憂げな音楽(マイケル・スモール)が雰囲気を盛り上げる。

 

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 監督パクラ+撮影ゴードン・ウィリスコンビでもう1本印象的なのが『パララックス・ビュー』(1974年)。政治家の暗殺を請け負い、暗殺者を養成する謎の会社「パララックス・ビュー」。調査に乗り出したジャーナリスト(ウォーレン・ベイティ)が陥る罠を描く傑作。こちらも全編を覆う陰気で不穏な雰囲気、クライマックスのブラスバンドの演奏をバックにした暗殺など忘れ難い。監督パクラ+撮影ウィリスコンビが次に手掛けたのがリアル政治スリラー『大統領の陰謀』だ。

 

 

 

『失踪者たちの画家』(ポール・ラファージ)

 

 ポール・ラファージ『失踪者たちの画家』(1999年)読了。全く知らない作家だけど、柴田元幸翻訳本にハズレなしのセオリーに沿って手に取ってみた。個人的には「失踪者」という言葉もポイント。

 

 主人公は画家志望の青年フランク。事件現場の死体写真を専門とする女性写真家プルーデンスに恋し、助手を務めるうちに仲を深めていくが、ある日彼女は忽然と姿を消してしまった。フランクは彼女の肖像画を描き、捜索願ポスターを町に貼り出す。身内に失踪者を持つ者たちのコミュニティで話題になり、フランクは失踪者の肖像画を描く画家として成功を収めていく。フランクの描いた肖像画を使用した捜索願いポスターが街中に貼り出される・・・。ここまでが第一部。風変りな男女の恋愛ドラマ、もしくは失踪者の肖像画家という奇妙なサクセス・ストーリーのようにも読める。しかしここから物語は(ポール・オースターのごとき)不条理な運命に暗転する。

 

 フランクは警察に捕らえられ、正式な捜査ルートに対する反乱罪だと裁判も行われぬままに監獄に送られる。絵を描く事を禁じられた監獄での過酷な日々。街に革命が勃発し、フランクは監獄から逃れる。すべてを失ったフランクは人形工場に職を得る。そこでプルーデンスそっくりの人形と出会って・・・。物語の後半は、予想外のシュールな展開を見せる。

 

 監獄の中に存在する書割のようなもう一つの街。人形制作の詳細な描写。人形を被告に行われる子ども裁判。失踪者たちの仮面を被ったパレード。人形が語るプルーデンスの秘密・・・。奇怪なイメージが次々と登場、映像的にも実に面白い。これは誰か映画にすべきだろう。今回も「柴田元幸翻訳本にハズレなし」であった。

 

 それにしても、失踪者の主題は何故こうも魅惑的なのか。

 

「去った人たちはあたしたちのこと見張ってるのよ、自分の世界より彼らの方に気持ちが向いている人を見たら、さらっていってしまうのよ。」

『密やかな結晶』(小川洋子)

 

 

 小川洋子『密やかな結晶』(1994年)読了。著者の作品を読むのは初めて。

 

 舞台は様々なものの記憶(概念)が少しずつ消えていく島。フェリーが、香水が、鳥が、薔薇が、人々の記憶から消えていく。中には記憶を保ち続ける者や、消えてしまった物を大事に隠し持つ者もいるが、島の秘密警察がそれらを厳しく取り締まる。主人公は作家で、「もし言葉が消えてしまったら、どうなるのだろう。」と不安を抱えて生きている。やがて小説が消える日がやってきて、本が燃やされ図書館に火が放たれる・・・。大事なものを失う悲痛な感覚が全編を貫く和風ディストピアSFの傑作。物語の終盤では「物」だけでなく、もっと大事なものが消えてしまう。この踏み込んだ描写がまた恐ろしかった。

 

 本書は以前某古本屋で購入した一冊。いわゆる「痕跡本」で、途中のページに感想が書かれた付箋が貼り付けられていた。たいそう達筆で、年配の方だったのかなと思われる。曰く「今だとケイタイ、パソコン、ロボットに人間としての心と大切な物を少しずつ失ってゆく事を書いているような気がします」と。

 

 本書は現代社会における人間性の喪失、個々の感情の喪失、それらを無抵抗に受け入れる事へ警鐘を鳴らす寓話であるが、例えば認知症の感覚を表現した物語として読むことも可能か。いかにもSFっぽい硬い文章ではなく、一見普通小説のような優しい文章で綴られているのがとても効果的だった。

『哀れなるものたち』『籠の中の乙女』(ヨルゴス・ランティモス)

 

 

 ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』鑑賞。実は初ランティモス。旧作はポスター等の印象からどうも苦手な気がして、これまでノーチェックだった。

 

 投身自殺を図った女性ベラ(エマ・ストーン)が天才医師(ウィレム・デフォー)の手で自らの胎児の脳を移植され蘇生する。知識を貪欲に取り込んで急成長を遂げるベラの冒険を描くファンタジー。これはもうエマ・ストーンのオン・ステージ状態であった。フランケンシュタインの現代的解釈も、凝りに凝ったヴィジュアルも、エログロも、ウィレム・デフォーマーク・ラファロの怪演も、ストーンの存在感(あの奇妙な歩行と堂々たる眉毛)の前には霞んでしまうのであった。

 

 デフォー演じる天才医師ゴッドは創造主であり、自らも狂った父親の実験対象であった。そこを踏まえた結末は、いささか収まりが良すぎる気がしたなあ。ベラが前のめりに知識を吸収するところが面白かったので、あの勢いで虐げられた者たちを率いて革命を起こすような結末だったら最高だったなと夢想した。

 

 ユーモアを基調とした演出、音楽(イェルスキン・フェンドリックス)、パブロ・フェロー風のクレジットなど隅々までデザインされ尽くされた映像等々、かなり好みの映画だった。船の旅でベラに本を与える女性はハンナ・シグラでしたね。

 

 

 『哀れなるものたち』が面白かったので、ランティモスの初期作品『籠の中の乙女』(2009年)もチェックしてみた。こちらは子供たちを家の敷地内から外に出さず、世間から隔絶して育てる家族の話。異常なシチュエーションをフラットな映像と演技で描く手つきはどことなく初期のハネケを連想した。露悪的な内容は『哀れなるものたち』と一緒だけど、映像的なアプローチが随分違っている。

 

 映画は子供たちの描写が中心だけど、主眼は両親だろう。確信に満ちた態度で間違った親権を振るう父と母。間違った指導者とその結果という教育や政治の在り方の寓話か。映画は変化の予兆を感じさせて幕を閉じる。しかしもっと面白いドラマはあの先にあるはずだと思い、歯痒さが残った。あ、その先を描いてるのが『哀れなるものたち』なのかな。

 

 『哀れなるものたち』でランティモス=変な映画という先入観が出来てしまい、驚きが少なかったというのはある。未知の新人の作品として本作に接していたらもっと衝撃があったかもしれないとは思う。

『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』

 

 

 イタリアン・ホラーの帝王ダリオ・アルジェントの自伝『恐怖 ダリオ・アルジェント自伝』読了。表紙は御大の怖い顔のアップで強烈なインパクト。

 

 正直言うとアルジェントの映画はどうも苦手である。イタリアン・ホラーの中で突出した個性を持つ監督であることに異論はないけれど、演出が一本調子だし、(脚本家出身なのに)お話の辻褄合わせに全く無関心で、派手な殺人シーンの演出にばかり注力しているのがどうも好きになれないのだ。ゴブリンのキラキラした音楽をバックに女性を主観カメラで追いまわし、刃物でグサっと突き刺して被害者がガラスを突き破り絶命する・・・みたいなお得意の見せ場を見ているとどうもアホらしい気分になってしまうのだった。モリコーネと素晴らしいコラボレーションを見せた初期の『歓びの毒牙』『四匹の蠅』は例外的に大好きなのだが。そんな訳で、本書はレオーネ『ウエスタン』に参加した経緯などが書かれてるかなと、それ位の興味で読み始めた。

 

 映画業界で働く父と写真家の母の間に生まれたアルジェントの子供時代から、記者時代のエピソード、女性遍歴、監督作の成り立ちなどが独特の感性と視点で綴られている。意外やとても面白い一冊だった。

 

 本書を読んで、自分が苦手なアルジェント作品の強引な展開、脈絡の無さ、細部を拡大するような感覚は、夢の論理の映像化だからなのかと改めて納得した。監督としてはあの語り口しかないとアルジェントは確信を持ってやっているのだ。こんな一節もある。「スリラー、ホラー、ファンタジー、サスペンス、ジャッロ、ノワール‥‥。私たちは自分の夢を定義するために、こうした言葉を使ってるに過ぎない。」と。

 

 記者時代ジョン・ヒューストン単独取材に成功した話やレオーネ『ウエスタン』参加の顛末など、監督デビュー前の話も実に面白い。ベルナルド・ベルトルッチ家の書斎で、それぞれ書き上げたばかりの『歓びの毒牙』と『暗殺の森』の脚本を読み合う場面には泣いた。レオーネが結びつけた若い二人の友情!

 

 また、60年代以降のイタリア映画界、ジャンル映画を取り巻く環境についてのドキュメントにもなっていて興味深く読んだ。苦手なアルジェントが少し好きになったぞ。

 

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『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』

 

 『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』 鑑賞。新宿武蔵野館にて。平日の最終回、客席は映画好きらしき若者が多数。近くに座った二人連れは熱心に『イメージの本』の話などしていた。頼もしい。

 

 本作は2022年に亡くなったゴダールが手がけた最後の作品という20分の短編。ゴダール作品でお馴染みのモチーフ、字幕、波、飛行機雲、フレーム・イン・フレーム(画面内に映画のスクリーンやTVモニター、写真など)、お尻、さらに晩年の作品で加わった犬は登場するのかな、とそんなことを考えつつ見始めた。

 

 映画は「『奇妙な戦争』予告編テイク1」の文字から始まる。無音で映像も動きのない冒頭数分の「ずっとこのままだったらどうしよう」感。味わい深いスチールと手描き文字のコラージュ。轟音とぶつ切りの音響効果。本人の震えるダミ声。「犬」や「お尻」は出て来なかったけど、コンラッドの引用があった。「自らが選んだ悪夢に忠実であれ」と。確か『闇の奥』の一節だと思う。オチもなくプツンと終わり、客席が明るくなった時の妙な雰囲気・・・。今回もまた映画鑑賞と言うより「体験」としてのゴダールを大いに楽しんだ。

 

 本作は短編なので入場料は1,000円。人によっては金返せの反応もありそうだけど、個人的にはあれこれフル回転で頭を使ってスッキリしたので、十分元は取れたかなと。あ、途中入場してきた人がいたな。あの人は10分くらいしか見てないのでは。さすがにそれは可哀想かな。

 

 『ゴダールの映画史』に『フューリー』のワンシーンが引用されていて驚いたけど、本作にも「デ・パルマ」の文字が。初期作品にはゴダールの影響が色濃いデ・パルマなので、これはきっと嬉しかったのであるまいか。

 

 本作はゴダールが手がけた最後の作品と謳われている。何となく「幻の」とか「発見された」とか言ってこれからも「最後の」作品が数年おきに出現しそうな予感はしないでもない。