Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

ジョルジュ・メリエス再訪(その3)

 メリエス連続鑑賞の続きです。メリエス作品はほとんどが10分以内なので、あっという間に見終わってしまう。モノクロ(彩色版の時もあるがやはり自然な色ではない)、台詞無し、アップ無し、コマ落としの様な動き、と今朝見た夢の断片を脳内で再生しているような趣があってクセになる。どれを見ても面白い。

 

 

『蛹と黄金の蝶』(1900年)

 醜い芋虫が蛹に入り、魔術師メリエスが杖を振るうと美しい蝶となって現れる。トリック撮影を使ったファンタジックな作品。魔術師が美しく変身した蝶に求愛すると、彼も芋虫になってしまうというユーモラスなオチがついている。

 



『魔法の本』(1900年) 

 メリエス演じる魔術師が巨大な本を開くと、本に描かれたキャラクターたちが実体化して現実の世界に飛び出す。ひとりがなかなか本の中に戻ろうとしなかったり、魔術師が倒れた本の下敷きになったり、コミカルな演出が楽しい。

 

 

 

『不思議な分裂』(1901年)

『ゴム頭の男』(1902年) 

 手足や首が身体を離れて勝手に動き出す『不思議な分裂』。台に置かれた生首にふいごで空気を送り込むとどんどん膨張し、やがて破裂してしまう『ゴム頭の男』。どちらも、トリック撮影を使って奇術師としての表現を推し進めた作品。他の作品を見ても、メリエスは人体破壊描写に執拗な拘りがあるように見える。

 

 

 

『黒い悪魔』(1905年) 

 ホテルの一室に棲みついた悪魔(黒猫の霊?)が、様々な悪戯で宿泊客を翻弄する。悪魔のアクロバティックなアクション、ヒゲの宿泊客の慌てぶりが可笑しい。メリエスお得意のボンッ!と上がる煙と共に姿をくらます演出が二度も出てくる。

 

 

 

『パリ=モンテカルロ2時間レース』(1905年)

 レースが題材だけど車のスピード感や勝敗が見せ場ではなく、行く先々で巻き起こすトラブルを描くスラップスティック・コメディだった。警官を轢くわ露店をひっくり返すわトラックとクラッシュするわ、最後は観覧席に突っ込んで大騒ぎ。

 本作を始め、『常識はずれの新たな争い』『5階からの落下』『飲んだくれのポスター』『黒い悪魔』など、メリエスの喜劇監督としての方向性と才能を確認できたことは大きな発見だった。

 

 

 

『ジャンヌ・ダルク』(1900年) 

 ジャンヌ・ダルクの物語は映画人の創作意欲を掻き立てるようで、後年のカール・ドライヤー、ロベルト・ロッセリーニ、ロベール・ブレッソン、オットー・プレミンジャー、ジャック・リヴェットからリュック・ベッソンに至るまで、数多くの映画が作られている。

 映画黎明期のメリエス版も、大勢のエキストラ、合戦シーン、オーバーラップの活用、他の作品では人物の横移動がメインなのに本作は縦移動もふんだんに出てきて演出のありようにも違いが見られるなど、他の作品とは明らかに力の入り方が違う。そしてメリエス版のジャンヌは、火刑の最中煙とともに消え失せ、鮮やかに昇天するのだ!

 

 

 

『ディレクティング・ザ・フィルム ― 巨匠たちの映画テクニック』(エリック・シャーマン編・著)

 

 エリック・シャーマン編・著 『ディレクティング・ザ・フィルム ― 巨匠たちの映画テクニック』(1976年)読了。映画評論家の渡部幻氏がXで本書について投稿していて、これは面白そうだと手に取ってみた。AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)で行われたセミナーや講演をもとに、著名な映画人たちの発言をテーマ別に集約した一冊。映画製作の過程における様々な局面についての貴重な証言集だ。

 

 本書に登場する映画人は、ハワード・ホークス、キング・ヴィダー、フランク・キャプラ、ジョージ・キューカー、ジョン・ヒューストン、アーサー・ペン、サミュエル・フラー、ロバート・アルトマン、ポール・マザースキー、スティーヴン・スピルバーグ、ブライアン・デ・パルマ(デ・パーマ表記!)、ウィリアム・フリードキン、ジャン・ルノワール、フリッツ・ラング、フェデリコ・フェリーニ、ロマン・ポランスキー、ルイ・マル、ジョン・カサヴェテス、ロジャー・コーマン、エイブラハム・ポロンスキー、スタン・ブラッケージ、バーバラ・ローデン、ポール・モリセイ(モリシー表記)、ハスケル・ウェクスラー他、錚々たる顔ぶれ。ハリウッド黄金時代の巨匠とインディペンデントの監督が混在しているのが本書のユニークなところ。ホークス、ヒッチコック、ルノワールらとポール・モリセイ(『トラッシュ』『悪魔のはらわた』『処女の生血』)が並んでいるのがとても面白い。

 

 本書は大きく4部構成となっており、第1部「監督の誕生/映画の始まり」では、映画監督とは何か、脚本の役割(「監督の貨幣」と称されている)、各監督の映画づくりの出発点となったエピソード等が語られている。第2部「戦いの場としての映画」では、製作現場を戦場として捉え、リハーサルやスタッフ編成といった前準備の重要性、集団作業として各スタッフとの連携が語られている。いきなり「軍隊の形成」という小タイトルなのが意味は分かるが抵抗感を覚えるところではある。第3部「ライトの下で」では、俳優の演出、カメラワークやレンズと言った映像スタイルの選択、編集作業、現場管理やトラブル対応など、主に撮影現場の運営について語られている。第4部「シネマ」では、映画と芸術、観客との関係、教育や批評など、撮影現場を離れ「映画とは何か」というテーマが語られている。

 

 本書を読んで最も面白いと思った点は(そして一般的な映画技法書としては難点があるのは)、ひとつのテーマに関して各監督がそれぞれ異なる方法論を語ることだろう。当然ハリウッドの大作とインディペンデント作品、実験映画では全く違う方法論が求められるだろうし、メジャー監督であっても現場でのアプローチはホークスとヒッチコックでは全く異なっている。監督たちが現場で何を考え、どんな哲学を持って映画製作を行ってきたか、発言には各人の個性やポジションが滲み出て大変興味深いところであった。「映画作りに正解はない(何でもありとは違う)」といったところだろうか。   

 

 個人的には敬愛するロバート・アルトマンの説得力のある発言をうなずきながら読んでしまった。アルトマンはインディペンデントから出発し、TVドラマを経由してハリウッド入り、様々な紆余曲折を経てハリウッド・メジャーとインディペンデントを往復しながら多彩な作品を撮り続けた偉大な監督だ。例えば、映画監督の問題点について問われたアルトマンは「自分への自惚れというのが一番陥りやすい罠だと思う。」と答える。そんなフットワークの軽さ、押しつけがましさのないところが信頼できるところだ。ロング・インタビュー『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』では映画製作を砂の城に例えていた。本書にも「映画は砂の城」発言がでてきたのでファンとしては感涙ものであった。

 

 

『美女とエイリアン』『巨大カニ怪獣の襲撃』(ロジャー・コーマン)

 ロジャー・コーマンの初期作品を連続鑑賞。コーマンは『あらくれ五人拳銃』(1954年)で監督デビュー、一気に量産体制に入った。1957年には5本(『美女とエイリアン』『女バイキングと大海獣』『鮫の呪い』『巨大カニ怪獣の襲撃』『ごろつき酒場』)も発表している。全盛期の石井輝男みたいな仕事量。この時期から演出の切れ味が増してきた印象だ。

 

 

『美女とエイリアン』(1957年)

 地球人の血液を調査するため人間に擬態して潜伏した異星人と女性看護師(ビヴァリー・ガーランド)との闘いを描くSF映画。モノクロ、上映時間67分。邦題はコメディみたいだけど(原題Not of This Earth)、基本はシリアス。

 ポール・バーチ演じる異星人は強面のおっさんで、眼力で相手を操る。しかし騒音に弱い(電話の音や女性の悲鳴に怯む)とか、クローゼットの奥に母星との通信が投影されるとか、奇妙なデザインの飛行生物とか、あれこれ涙ぐましい工夫の跡が。映像は見るからに超低予算という貧弱さなんだけど、それなりに面白く見せ切っちゃうのがコーマンの技だ。墓場でのラストシーンが冴えていて、そこだけでも満足だった。脚本はコーマン作品常連のチャールズ・B・グリフィス(『血のバケツ』『リトルショップ・オブ・ホラーズ』等)。

 コーマン及び門下生の作品常連のディック・ミラーが訪問販売員役でワンシーン出演していた。

 本作は後年、元人気ポルノ女優のトレイシー・ローズ主演でリメイクされている。見てみたいような見たくないような。

 

 

 

『巨大カニ怪獣の襲撃』(1957年)

 こちらは初期コーマンが得意としたモンスター・ムービーの一本。モノクロ、上映時間62分。行方不明になった遠征隊を探して孤島に乗り込んだ科学者チームを巨大なカニが襲う。表題の「巨大カニ怪獣」はつぶらな瞳が印象的なハリボテで、なかなか良く出来てる。最初は被害者の様子だけで姿は見せず、次にハサミだけ、洞窟の暗がりで顔の部分、そして遂に全身・・・というお約束の段取りで、後半は安っぽさをものともせず、怪物を惜しみなく見せてくれるのが嬉しい。

 しかもこのカニはただデカいだけじゃなくて知性があり、食べた人間の声を使いテレパシーで語り掛けてくるというオカルトじみた設定があってかなり気持ち悪い。本作も脚本はチャールズ・B・グリフィス。コーマン作品の低予算ながらひねった面白さは、グリフィス脚本の功績が大きいと思う。

 

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『マリファナ』(ドウェイン・エスパー)

 

 ドウェイン・エスパー監督『マリファナ』(1936年)鑑賞。『マリファナ』は、以前Trash Mountain Videoから『リーファー・マッドネス 麻薬中毒者の狂気』『マニアック』との組み合わせで3in1DVDとしてリリースされていた。当時のコピーは、「トラッシュマウンテンビデオ4周年記念特別企画!麻薬の恐ろしさを世の中に訴える3in1禁断の映画たちが70年のときを超えて遂に日本に上陸!」。ユーロ・ホラーを中心にコアなマニア向けのカルト映画を精力的にリリースしていた「Trash Mountain Video」(通称トラマン)は当時熱心にチェックしていたけど、さすがに本作までは手が出なかった。YouTubeにフルでアップされているのに気が付いてチェックしてみた。モノクロ、57分の中編。

 

 パーティでマリファナを吸った若い女性がそれをきっかけに身を持ち崩し、犯罪者へと落ちぶれていく。1930年代アメリカの反麻薬プロパガンダ映画ということらしい。反麻薬を本気で訴えてるのか、それを口実にしたエクスプロイテーション映画なのか判然としないヘタウマ感が味わい深い一篇であった。マリファナでハイになったパーティ客が全裸になって波と戯れる場面などを見ると、恐らくは後者なのであろうが、映像表現にはどこか天然の感じが(エド・ウッド的な)あって、本気で反麻薬を訴えてるのにピントがずれてしまったようにも見える。当時はどのように受け止められたのだろうか。これ見てみんな本気で怯えたりしたのだろうか。

 

 大袈裟な演技、ベタな展開と、キッチュな表現を楽しむだけの映画かと思いきや、時折妙に印象的なショットがあって侮れない。車にもたれて恋人に甘える主人公の足元、密輸が失敗し瀕死の男から滴り落ちる鮮血、ミルクを拒絶する誘拐された女の子の表情、主人公の未来を遮るように閉ざされるドア、等々・・・。マリファナの影響に関する描写は、ハイになって羽目を外す場面と、取引を示す映像がメイン。後年のコーマン『白昼の幻想』のようなトリップ場面、幻覚描写がほとんど無いのが意外なところ。ヘイズコードの検閲下においては精一杯の表現だったのか。

 

 隠れた傑作だ何だと持ち上げる気はさらさらないけれど、奇妙な魅力があるのは確か。『リーファー・マッドネス 麻薬中毒者の狂気』『マニアック』も探してチェックしてみようかな。

 

 

マルクス兄弟とレーガン、元祖CUBE、煙草の妖精、コッポラの野望、とかその他

 就寝前の短編映画鑑賞の続きです。無理やり探さなくても、面白そうな作品が数珠つなぎに見つかるので楽しい。

 

ミッチェル・ライゼン『素晴らしき宝石強盗』(1959年) 

 マルクス兄弟のチコとハーポが主演したTV用短編。ドジな宝石強盗の顛末を、ほぼサイレントのスタイルで描く。ハーポだけじゃなくてチコもほとんど喋らない。あのうさん臭い訛りが聞けないのはちょっと寂しいけど、2人のパントマイム芸が楽しめるので良かった。グルーチョも意外な形で登場して笑わせる。北野武『HANA-BI』に先行した偽装パトカーのギャグもあり。

 本作は3人が公式に共演した最後の作品なのだという。彼らはいったい何歳なんだろうと思って調べたら、彼らは1880年代生まれで(驚愕)、1959年にはチコ72歳、ハーポ71歳、グルーチョ69歳。もう晩年の作品なのだった。

 本作が放映されたのはロナルド・レーガンが俳優時代にホストを務めたTVショー『ゼネラル・エレクトリック・シアター』の1コーナーで、YouTubeで見つけた映像にはレーガンの前説が入っていた。

 



ジム・ヘンソン『キューブ』(1969年) 

 TV『セサミ・ストリート』や映画『ダーククリスタル』で知られるマペット・マスター、ジム・ヘンソンが監督したTV用短編。白い壁に囲まれた立方体の部屋に閉じ込められた男と、次々と現れる奇妙な訪問者たちの珍問答を描く。閉鎖空間からの脱出劇や監禁ホラーではなくて、不条理コメディだった。ヴィジュアル的にはヴィンチェンゾ・ナタリのヒット作『CUBE』の原型か。

 気が付くと見知らぬ部屋に閉じ込められていた・・・という物語は、『CUBE』を筆頭に、文学はトマス・M・ディッシュの短編『リスの檻』、ウルグアイのディストピア小説『場所』、映画ならホラー『ソウ(Saw)』シリーズ、パク・チャヌク『オールドボーイ』に至るまで綿々と作られ続けている。何が元祖なのかとAIに聞いてみたら、TV『トワイライト・ゾーン』のエピソードや、サルトルの戯曲『出口なし』が出てきた。そうか、でもまだ納得できない。元祖は他にあるような気がしてならない。

 



J・スチュアート・ブラックトン『ニコチン姫、または煙草の妖精』(1909年) 

 フランスのメリエスに対抗して、アメリカでトリック映画~アニメーションの基礎を作ったヴァイタグラフ社製の短編。煙草の妖精がパイプを吸う男性に悪戯を仕掛けて翻弄する。良く出来ていると感心するけど、メリエス作品に感じる夢幻的な魅惑には乏しい。何が足りないのだろう。映像の速度か、ユーモアか、作り手の衝動か。さておき、タイトルPrincess Nicotine,or,The Smoke Fairyのインパクトが凄い。プリンセス・ニコチンって何・・・。

 

 

 

クリス・マルケル『JUNKOPIA』(1981年) 

 『ラ・ジュテ』の異才クリス・マルケル作品。海岸に打ち捨てられたオブジェを捉えた短編。オブジェはそれぞれ表情があって個性的で、次第に古代の恐竜の骨のようにも見えてくる。吹きすさぶ風の様な音響と相まって、映像には終末感が漂う。

 最後にZoetrope studiosへの献辞が。コッポラが絡んでいたのか。80年代初頭のコッポラは、ヴェンダース、ゴダール、マルケルらヨーロッパの監督たちと盛んにコラボレーションを試みていたのだな。

 

 

 

クリス・マルケル『ECLIPSE』(1999年) 

 皆既日食の日。天体ショーそのものではなく、様々な鑑賞用メガネをつけて空を見上げる人々を捉えた短編。皆期待と不安に満ちたイイ表情を浮かべていて、見ているこちらにもときめきが伝わってくるようだ。子供たち、フクロウも。エンドクレジットの監督名の出し方がカワイイ。

 

 

 バリエーション豊かな鑑賞用メガネから、やっぱり『ラ・ジュテ』を思い出した。

 

 

読書記録(2026年6月後半)

 6月後半に読んだ本は、4冊。まだブログに書いていなかった分について、簡単に感想を書き記しておきます。

 

R・L・スティーヴンソン『子供の詩の庭』(1885年) 

 スティーヴンソンが優しい目線で子供の世界を描いた詩集を、池澤夏樹・池澤春菜共訳で。自然の中でごっこ遊びに興じる子供の詩は微笑ましいけれど、田舎育ちの自分でさえ、いささか牧歌的すぎて現代にはない世界だなあと思う。でも眠りとともに夢の世界へと遊ぶ詩だけは、時代も場所も超えて現在の自分にも(そしてきっと子供たちにも)共有できる感覚かもしれない。

 

 

 

ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』(1789年) 

 池澤夏樹・池澤春菜共訳による詩集をもう一冊。ブレイクは、人種問題や児童労働、弱肉強食の現実を理解した上でなお、イノセンスを肯定する。その姿勢に惹かれつつも素直に受け入れ難いのは、自分の覚悟が足りないからか。それとも、結局すべてを「神」に委ねてしまう彼の姿勢に引っ掛かりを感じるからか。

 池澤夏樹・池澤春菜共訳の詩集を2冊読んで、気持ちのこもった翻訳と丁寧な解説に感心しつつ、どうしても素直に受け入れられない自分の汚れっぷり(?)を自覚して少し落ち込んだ。

 

 

 

ジョナサン・キャロル『空に浮かぶ子供』(1989年) 

 久々の再読。元映画監督ウェーバーは、自殺した親友から未完の映画を引き継ぐ。親友の残したメッセージに戸惑いながら撮影を続けるウェーバーを様々な怪異が襲う。残された謎が読後にじわじわと心の奥で恐怖に変わっていく。キャロルの初期作品の中では本作に一番思い入れがある。ウェーバーのものの考え方や振る舞いはどうしても他人事とは思えない。

 『木でできた海』(2001年)以来、キャロル作品は邦訳が途絶えているけれど、その後も順調に長編を発表しているようだ。デビュー作『死者の書』からのファンなので、邦訳を心待ちにしている。

 

 

 

レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望 増補改訂版』(2016年)

 著者は、自分たちがまだ旅の途上にあることを認識すれば、闘争の過程において「うぬぼれなしに達成を感じ、敗北感なしに問題意識を感じる」ことができるはずだ、と言う。革命は二項対立ではない。不安で思い悩む現在、思考と行動を強く鼓舞してくれる言葉に満ちた名著だった。昨今よく目にする右派左派の対立についても説得力を持って解説されていた。読んで良かった。

 

 

『ウィスキー・ガロア』(アレクサンダー・マッケンドリック)

 

 新宿K’s cinemaで開催中の「英国イーリング・コメディの黄金時代」。解説によると「イーリング・コメディ」とは、30年代から50年代にかけて、英国のプロデューサー、マイケル・バルコンが主催するイーリング撮影所で製作された一連の喜劇映画のこと。日本ではアレック・ギネス主演の『マダムと泥棒』(1955年)が公開されただけで、これまで紹介されたことが無かった。これは貴重な機会だと劇場に足を運んだ。

 

 鑑賞した作品は、アレクサンダー・マッケンドリック監督『ウィスキー・ガロア』(1949年)。舞台はアイルランドの小島。戦時下でウィスキーの配給が止まり、お酒好きの島民たちは生きる意欲を失っていた。そんな折、近海で貨物船が座礁。積み荷が大量のウィスキーであることが分かり島では大騒動に・・・。

 

 これは「お酒映画」「酔っ払い映画」ジャンルの快作だった。ウィスキーを巡って飲んだくれたちが大騒ぎ。しかし本作はお酒の魅力、飲酒の真髄がテーマではない。男たちの子供じみた振る舞いや、滑稽な団結を、マッケンドリックはこれぞ英国的ユーモアと言うかなり突き放したタッチで描いている。男たちの馬鹿騒ぎを見つめる女性たちの視線も冷ややかで。安直に「ちょっとイイ話」や「人情ドラマ」に陥らないところは好ましい。これまでの馬鹿騒ぎは何だったんだと言いたくなる結末、皮肉の効いた締めくくりのナレーションには思わず笑ってしまった。

 

 酔っ払い集団(おっさんたち)の騒ぎっぷりには既視感があったなあ。うちの田舎でリメイクできそうだ。東北の山村を舞台にした『日本酒ガロア』はアリだろう。『日本酒ガロア』には女性たちも参加してさらに混沌とした映画になりそうだが。

 

 本作はリメイクされている。『ウィスキーと2人の花嫁』(2016年)。ポスターの感じだと、こちらは人情ドラマというかほのぼの路線なのかな。

 

 映画は最高、しかし今回も鑑賞のコンディションはいまいちだった。映画館が悪いのではなくて、こちらの心身のコンディションの話。映画館の大音量が耳から脳へ直に突き刺さってくるようで辛かった。このままでは新作映画の重低音、ましてや生で音楽ライブなんか絶対に無理な気がする。ううむ。

 

ウイスキーと2人の花嫁

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