Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

リチャード・ブローティガン再訪(その3)

 

 リチャード・ブローティガン再訪の続きです。

 

『ビッグ・サーの南軍将軍』(1964年)

 ブローティガンの初期作品。『西瓜糖の日々』では架空の村を舞台にファンタジーとして描かれていたヒッピー生活。こちらはリアル版か。楽しさという意味ではブローティガン作品で一番かもしれない。無限に拡張する結末が最高だった。

 

 

 

アメリカの鱒釣り』(1967年)

 言わずと知れたブローティガンの代表作。小説のような、詩のような、回想録のような、単なる法螺話のような、哀しみとユーモアに満ちた味わい深い一冊。

 鱒釣りについての本を列記したページが面白い(全部実在するらしい)。『鱒狂い』『魚が我らを分つまで』『徒然釣り』・・・。

 文中、「マック・セネット風の時間」という表現や、マルクス兄弟『けだもの組合』の台詞が引用される場面があり、やっぱりブローティガンはクラシック・コメディのファンだったのだなと。

「そしてかれは、しばしば、幻想の内にしか見出すことのできない地平、アメリカに向かって旅立とうとしていたのだった。」

 

 

 

『鳥の神殿』(1975年)

 70年代のブローティガンは「ジャンル小説」に挑戦。『ホークライン家の怪物』は怪奇小説、『鳥の神殿』は倒錯的ミステリー、『ソンブレロ落下す』は日本小説、『バビロンを夢見て」は探偵小説、という具合。この諸作が評価されず、本国では忘れられた存在になってしまったようだ。しかしこれらは今読んでも充分に刺激的で、「アメリカ」の興亡を描くブローティガンのテーマも一貫している。個人的にはとても楽しめた。

 『鳥の神殿』は二組のカップルの性生活と、ボーリング好きの三兄弟が奪われたトロフィーを探して旅をするうちに悪に染まる物語が並行して描かれる。空虚で暴力的な世界は、これまで読んだブローティガン作品とはかなり異質な手触りだった。実に興味深い作品。

 

 

 

ソンブレロ落下す―ある日本小説』(1976年)

 谷崎潤一郎に捧げられた異色作。ブローティガンなりの「日本小説」。日本人の彼女・雪子に去られて孤独に身悶えする作家と、彼が破り捨てた原稿の物語が並行して描かれる。眠り続ける雪子の描写は愛と憧れに満ちていて素晴らしい。ところがサイドストーリー(ゴミ箱に捨てられた紙片の中で進行していく)で血塗れのスラップスティックが展開。結局日本ではなくて、いつも通り「アメリカ」についての小説になってしまうのだった。

 本作には、映画『狼たちの午後』でアル・パチーノが野次馬を煽るアッティカ刑務所の暴動の話が出て来る。暴動事件は1971年なので、執筆当時はまだ記憶に新しかったのだろう。

 

 

『バビロンを夢見て―私立探偵小説1942年』(1977年)

 1942年、第二次大戦にアメリカが沸き立った時代。妄想癖のある貧乏探偵カードの活躍を描くオフ・ビートなハードボイルド・ミステリー。本作にも「バワリー・ボーイズ」が登場、死体安置所でのドタバタ騒ぎなど正にクラシック・コメディの呼吸だ。

 ブローティガンは裏表紙の著者近影にいにしえの文豪みたいな顔で写ってる。「彼の作品に一貫して流れているのは、物質文明の拒否と、その文明社会からの逃避であり、登場する人物はすべてファンタジーの世界に生きている」と。本作の探偵もまた己のファンタジー世界「バビロン」に生きているのだった。

 

 

 

藤本和子リチャード・ブローティガン』(2002年)

 リチャード・ブローティガン再訪の締めくくりとして、評伝『リチャード・ブローティガン』読む。著者はほとんどの翻訳を手掛け、生前の本人とも交流があった藤本和子氏。これは素晴らしい。一文一文が心に響く。ブローティガンの詩や小説は、彼の人生も含めて大きなひとつの作品だったのだなと思う。

 著者が最も愛するブローティガン作品は『アメリカの鱒釣り』『芝生の復讐』『ハンバーガー殺人事件』だという。ブローティガンのオリジン(故郷の風景)が最も色濃く反映した三作品か。それらももちろん素晴らしいけれど、個人的には黙殺されたジャンル小説『ホークライン家の怪物』『ソンブレロ落下す』『鳥の神殿』『バビロンを夢見て』の孕む可能性にも捨てがたい魅力を感じている。

 

「ちりの世界の黙示録を読者の目の前に現前させたかれの文学は、読む者の記憶の水底に棲息しつづけることだろう。」

 

 邦訳されている本に関してはこれで全てチェックしたことになるはず。どれも本当に興味深く面白かった。つまらないと思う作品はひとつもなかった。今回の再訪で、ブローティガンは自分にとって大事な作家のひとりになった。今後も折を見て再読したいと思う。