Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』

 

 『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』 鑑賞。新宿武蔵野館にて。平日の最終回、客席は映画好きらしき若者が多数。近くに座った二人連れは熱心に『イメージの本』の話などしていた。頼もしい。

 

 本作は2022年に亡くなったゴダールが手がけた最後の作品という20分の短編。ゴダール作品でお馴染みのモチーフ、字幕、波、飛行機雲、フレーム・イン・フレーム(画面内に映画のスクリーンやTVモニター、写真など)、お尻、さらに晩年の作品で加わった犬は登場するのかな、とそんなことを考えつつ見始めた。

 

 映画は「『奇妙な戦争』予告編テイク1」の文字から始まる。無音で映像も動きのない冒頭数分の「ずっとこのままだったらどうしよう」感。味わい深いスチールと手描き文字のコラージュ。轟音とぶつ切りの音響効果。本人の震えるダミ声。「犬」や「お尻」は出て来なかったけど、コンラッドの引用があった。「自らが選んだ悪夢に忠実であれ」と。確か『闇の奥』の一節だと思う。オチもなくプツンと終わり、客席が明るくなった時の妙な雰囲気・・・。今回もまた映画鑑賞と言うより「体験」としてのゴダールを大いに楽しんだ。

 

 本作は短編なので入場料は1,000円。人によっては金返せの反応もありそうだけど、個人的にはあれこれフル回転で頭を使ってスッキリしたので、十分元は取れたかなと。あ、途中入場してきた人がいたな。あの人は10分くらいしか見てないのでは。さすがにそれは可哀想かな。

 

 『ゴダールの映画史』に『フューリー』のワンシーンが引用されていて驚いたけど、本作にも「デ・パルマ」の文字が。初期作品にはゴダールの影響が色濃いデ・パルマなので、これはきっと嬉しかったのであるまいか。

 

 本作はゴダールが手がけた最後の作品と謳われている。何となく「幻の」とか「発見された」とか言ってこれからも「最後の」作品が数年おきに出現しそうな予感はしないでもない。

『エレメント・オブ・クライム』『ヨーロッパ』(ラース・フォン・トリアー)

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 早稲田松竹にて、ラース・フォン・トリアー特集。初期作品『エレメント・オブ・クライム』『ヨーロッパ』の二本立てを見に行った。劇場でトリアー作品見るのは『メランコリア』以来。

 

 まず『エレメント・オブ・クライム』(1984年)。トリアーの長編デビュー作。捜査官が犯罪者と同化して猟奇殺人事件を追うミステリー。学生時代(大昔)に一度見ただけなのに、意外なくらい細部まで覚えていた。それだけイメージが鮮烈だったということか。

 本作はタルコフスキー症候群みたいな凝りに凝った映像(セピア調の色合いと滴る水のイメージ)で描くトリアー流フィルム・ノワールだ。回想形式の語り口、捜査官が犯罪者と同化して事件を追う(自己の影を追う)という物語はノワールの定番。真犯人のオチは定石通り‥‥なんだけど、奇妙なラストショットは全く想定外で、デビュー作にしてトリアーの非凡さが印象付けられる。てか何だあれは。主人公が精神科医にかけられた催眠術で過去を回想するというスタイルも面白い。

 出演マイケル・エルフィック、メ・メ・レイ、エスモンド・ナイトら馴染みのない顔ぶれ。皆いい顔つきをしている。

 

 

 続いて『ヨーロッパ』(1991年)。こちらは封切時以来の再見。『エレメント・オブ・クライム』は主人公が催眠術にかけられていたけど、本作では観客に催眠術を掛けるようなナレーション(声はマックス・フォン・シドー)が入る。

 第二次大戦直後の荒廃したドイツを舞台にしたサスペンス。デ・パルマ的俯瞰での移動撮影を始め、スクリーン・プロセス、パートカラー、ミニチュア特撮等々、映像ギミックがてんこ盛り。若きトリアーのやる気満々な演出が楽しめる。スクリーン・プロセスは暗殺場面などに劇的な効果を上げていた。ギミックだけでなく、疾走する列車を舞台にするなど王道の娯楽活劇への志向も見られる。並走する列車で男女が別れを交わす場面など堂々たる演出ぶりだった。映画はシリアスなタッチだけど、近年のトリアーならもっとユーモアをぶち込んで来るだろうなと思う。

 出演ジャン=マルク・バール、エディ・コンスタンティーヌバルバラ・スコヴァ、ウド・キアーほか。トリアー本人も出てた。

 

 今回鑑賞した2本は人工的な映像美の世界。トリアーの映像は不可思議な吸引力があって最後まで見てしまう。『エピデミック』なんかもそうだった。テーマ的には「ヨーロッパで何かに取り憑かれた」なんて台詞の通り、ヨーロッパ(的なるもの)探求に異常な熱意を傾けていたのだな。『エレメント・オブ・クライム』『ヨーロッパ』『エピデミック』で〈ヨーロッパ三部作〉と呼ばれているのか。この後トリアー作品はグラフィカルな映像を部分使用に留め、登場人物の生々しい感情表現に主軸を移す。無垢な女性を虐め抜く変態性を加味し、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以降はアメリカ(的なるもの)への悪意を執拗に描く方向に突き進む。

 

 

 

『白い果実』三部作 『最後の三角形』(ジェフリー・フォード)

 

 

 短編集『言葉人形』を読んで以来、ジェフリー・フォードにはすっかりハマってしまった。長編<『白い果実』三部作>、短編集『最後の三角形』も読んでみた。ジャンルで言えばダーク・ファンタジーということになるのかな。こちらも実に面白かった。

 

 長編三部作の第一作『白い果実』(1997年)は、人間の相貌を読み解く特殊能力を持つ主人公クレイが炭鉱の町で起こった怪事件の捜査に挑む。クレイは一種のオカルト探偵のような位置付けで、全編に魔法やアクションの見せ場が満載された娯楽篇だった。第二部でクレイが収監される監獄島のホテルを切り盛りする看守猿サイレンシオ、第一部と第三部でクレイを助ける大男カルーなど脇役も印象的。最後は革命が勃発、絶対的な権力者ビロウが支配する巨大都市が崩壊する。

 

 

 第二作『記憶の書』(1999年)は、ビロウの支配する都市が崩壊してから数年後。主人公クレイは廃墟と化した都市を離れ、村で平和な生活を送っていた。しかしビロウがウイルスをばら撒いた「眠り病」で村が崩壊の危機にさらされ、クレイは特効薬を探す旅に出る。特効薬の秘密を探るため、クレイはビロウの意識下の世界に侵入する。そこで出会う四人の研究者との奇妙な生活。水銀の海、空中に浮かぶ島のイメージが強烈。特効薬をめぐる結末はかなり皮肉で、全くヒロイックではないところがいい。

 

 

 三部作完結編は『緑のヴェール』(2002年)。『記憶の書』の最後に村を追われたクレイは、異形の生物や多様な民族が住む<彼の地>へと歩を進める。『緑のヴェール』はクレイの過酷な旅路を描く冒険活劇であり、意外な人物を語り手に据えることで「物語る」ことについての重層的な考察が展開する興味深い作品だった。

 

「どうして物語なんぞにこだわるんだ?」

「世界が数々の物語で出来ていると知っているからですよ」緑人は答えた。

 

 

 

 短編集『最後の三角形』は、『言葉人形』同様、全く先読みの出来ない短編が14篇収録されている。特に冒頭に収録された『アイスクリーム帝国』は凄すぎて、直ぐに読み返してしまった。『アイスクリーム帝国』と『創造』(『言葉人形』収録)はここ10年くらいで読んだ中で最も衝撃的な短編小説だったと言っても過言ではない。

 昆虫型の異星人と往年のハリウッド映画で交易する『エクソスケルトン・タウン』、子供が作る砂の城に住む妖精の冒険『イーリン=オク年代記』、ミステリー仕立ての『タイムマニア』『星椋鳥の群翔』等々‥‥。どれも奇想をきっちりエンタメに落とし込んでいて、長編映画を見終えたような満足感が味わえた。

 作者フォードについてはアメリカ人ということ以外知識を持たない。故郷を離れた者の話、また主人公が古い因襲と魔術に縛られた町を出る結末が多いが、自身の来歴となにか関係があるのだろうか。

『荒馬と女』と『アステロイド・シティ』

 

 これは昨年12/25の鑑賞記録です。早稲田松竹にて「『アステロイド・シティ』へのロードマップ 50年代アメリカ演劇とマリリン・モンロー」と題された特集上映。作品はウェス・アンダーソン監督の23年度作『アステロイド・シティ』と、エリア・カザン監督『欲望という名の電車』、ジョン・ヒューストン監督『荒馬と女』の三本。時間の都合で『荒馬と女』と『アステロイド・シティ』の二本のみ鑑賞。

 

 ジョン・ヒューストン監督『荒馬と女』(1961年)は初見。今回の特集上映へのセレクションは、劇作家アーサー・ミラーが脚本であること、『アステロイド・シティ』同様に荒野が舞台となっていること、アメリカ(の男性社会)がテーマになっていること、からなのかな。

 離婚したばかりの美女マリリン・モンローと、荒野に生きる古い価値観の男たち(クラーク・ゲーブルモンゴメリー・クリフトイーライ・ウォラック)。原題THE MISFITS=はみ出し者たちの葛藤、生々しいぶつかり合いが胸を打つ。アーサー・ミラーは当時モンローの夫であり、故にモンローありきの物語なのだろうが、それにしても彼女の発する過剰なオーラが凄かった。周りの男たちは皆メロメロになってしまう。ヒューストンもモンローのあれやこれやを舐めるように撮っていて、お尻や胸元に向けた視線を強調するカメラには落ち着かない気持ちにさせられる。

 ヒューストンは自伝を読むとマッチョな変人、作る映画より本人の奇行の方が面白い人、という印象。しかし本作の生々しい迫力を見ると、こういうのもちゃんと撮れるんだよなあと。しかも男たちの時代遅れの価値観が敗北する話でもある。

 クラーク・ゲーブルの人間味、モンゴメリー・クリフトの漂わす無垢な雰囲気、イーライ・ウォラックのいじけ感。モンローと男たちを繋ぐセルマ・リッターの存在感(さっさと退場してしまう辺りがまたリアルだった)。

 

 続けて、ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』(2023年)。ウェス・アンダーソンの映画は凝り過ぎの映像が息苦しくて、どちらかといえば苦手。本作もカラフルな色彩と凝ったカメラワークで、演劇『アステロイド・シティ』の開幕までを追ったTVドキュメンタリー、演劇関係者のあれこれ、書割のような映像で再現された物語、と入れ子状態になった複数のエピソードが進行。良く出来てると感心する一方、どこか腑に落ちないところがあって、ノリ切れずに終わってしまった。

 前作『フレンチ・ディスパッチ』の偽フランスは楽しめたけど、本作の偽50年代アメリカは楽しめなかった。核実験をポップに描かれても困るというのもあるかな。『フレンチ・ディスパッチ』だって相当凝った映像だったわけで、今回ノレなかったのは映像の問題だけでは無いのかもしれない。宇宙人の来訪で街が封鎖、人々が軟禁され、子供たちが知力を尽くして反抗を試みる‥‥というメインストーリーだけなら楽しいのになあと。

 

 この日見た二本は実に対照的な作風で興味深かった。荒野の映像ひとつ取ってみてもこんなに手触りが違うのかと。

 

 

『雨のなかの女』(フランシス・フォード・コッポラ)

 

 

 デニス・ホッパー見たさに『ランブルフィッシュ』、ナスターシャ・キンスキー見たさに『ワン・フロム・ザ・ハート』を見直して、いやコッポラいいよねと再評価の気持ちが高まった。『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』といった大作ではなくて、味のある小品にコッポラの演出力と趣味の良さが現れているのではないかと。という訳で、初期作品の『雨のなかの女』(1969)を久しぶりに再見。

 

 自立を模索して家出した若妻(シャーリー・ナイト)と旅先で出会った無垢な男(ジェームズ・カーン)がアメリカを彷徨する。男女のロードムービーで、登場人物の過去を示すフラッシュ・バックなどいかにもニューシネマの時代らしい。しかし無法者ではなく平凡な主婦の反逆と放浪にフォーカスしている所が特別だ。シャーリー・ナイトの沈んだ表情と時折見せる激情。雨に濡れた街路、鏡を使った会話場面の演出など実に繊細。改めて傑作だと感動を新たにした。

 

 主人公が旅先で出会う二人の男を演じるのはジェームズ・カーンロバート・デュバル。二人の哀しい存在感がいい。ちなみに彼らは『宇宙大征服』『雨のなかの女』『ゴッドファーザー』『キラーエリート』と何度も共演している。

 

 原題The Rain People。劇中でカーンが語る。「雨でできた人間がいるんだ。泣くと涙になって溶けてしまう」と。そんなイメージなのか、オリジナルポスターはしみじみと良いデザイン。

 

 日本版ポスター。オリジナルを踏襲したこちらも良いデザイン。惹句がなかなか凄い。

「なぜ彼女は若い夫に不満なのか?行きずりの男の誘惑に涙の雨降らす新婚の女!」

そんな映画だっけなあ。新婚の女!って‥‥。

 

 

『ストップ・メイキング・センス 4Kレストア』(ジョナサン・デミ)

 

 トーキング・ヘッズのライヴ・ドキュメンタリー『ストップ・メイキング・センス』が4Kレストアされて劇場公開。『ストップ・メイキング・センス』は「音楽映画」と聞いて真っ先に思い出す大好きな作品。何と近所のシネコンでも上映されると知って速攻行ってきました。イオンシネマ市川妙典にて、IMAXで鑑賞。

 

 レストア版は映像・音質とも格段に向上、IMAXで見たので破壊力が凄かった。何度も見ている映画なのに新鮮に楽しめました。いやー最高だった。バンドメンバーの楽しげな表情、デヴィッド・バーンのエキセントリックなパフォーマンスもたっぷり楽しめて大満足。凝りに凝った照明や美術を押しつけがましくなくさらりと撮るのがジョナサン・デミの流儀。トーキング・ヘッズの最良の記録として、またライヴ・ドキュメンタリー映画のお手本として、今後とも語り継がれていくであろう素晴らしい映画だと改めて思いました。

 

 『ストップ・メイキング・センス』初見は1987年、確かキネカ大森だったと思う。平日の最終回でお客さんはまばらだった。「字幕出ないんだ」と思った記憶。今回のレストア版はちゃんと歌詞の字幕付きなのが嬉しかった。尖がった言葉の渦は良く分からないものも多いのだけれど。歌詞にも注目すると、本作のアップデート版とも言える『アメリカン・ユートピア』が非常にコンセプチュアルな選曲であったことが良く分かる。

『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ)

 

 マーティン・スコセッシ監督『アリスの恋』(1974年)鑑賞。早稲田松竹にてレイトショー。30年ぶり?くらいの再見。もちろん劇場鑑賞は初めて。

 

 主人公は夫を事故で失った中年女性アリス(エレン・バースティン)。結婚で諦めていた歌手になる夢を叶えるため、息子を連れて故郷モンタレーを目指して旅をする。

 

 冒頭は歌手になる夢を宣言するアリスの少女時代(セットを強調した人工的な映像で『オズの魔法使い』みたい)。それが終わると、Mott the Hoopleが流れ住宅街の空撮に切り替わり、カメラは平凡な主婦となった現在のアリスを映し出す。このオープニングの掴みはスコセッシらしいノリの良さ。

 

 妄執に囚われた男のドラマを得意とするスコセッシの作風からすると、女性が主人公の本作は異色の部類だろうが、記憶にある以上に良い映画だった。典型的なアメリカ映画の楽しさに溢れていて実に良かった。家族の絆、旅の感覚、音楽の楽しさ、人々の善意、そしてセカンドチャンスの希望。

 

 主演エレン・バースティンをはじめとした出演者たちも皆生き生きと輝いていた。やかましい息子アルフレッド・ルッター。先輩ウエイトレスのダイアン・ラッド。子役時代のジョディ・フォスター。ゲスな田舎者演じるハーヴェイ・カイテルが当時からもう完璧なカイテルっぷりで笑った。

 

 今回はフィルム上映だった。ワーナーの丸っこいロゴマーク見ただけで、あー無理してでも来て良かったなと感動。フィルムの色褪せ、キズやコマ飛びすら楽しかった。