Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『荒馬と女』と『アステロイド・シティ』

 

 これは昨年12/25の鑑賞記録です。早稲田松竹にて「『アステロイド・シティ』へのロードマップ 50年代アメリカ演劇とマリリン・モンロー」と題された特集上映。作品はウェス・アンダーソン監督の23年度作『アステロイド・シティ』と、エリア・カザン監督『欲望という名の電車』、ジョン・ヒューストン監督『荒馬と女』の三本。時間の都合で『荒馬と女』と『アステロイド・シティ』の二本のみ鑑賞。

 

 ジョン・ヒューストン監督『荒馬と女』(1961年)は初見。今回の特集上映へのセレクションは、劇作家アーサー・ミラーが脚本であること、『アステロイド・シティ』同様に荒野が舞台となっていること、アメリカ(の男性社会)がテーマになっていること、からなのかな。

 離婚したばかりの美女マリリン・モンローと、荒野に生きる古い価値観の男たち(クラーク・ゲーブルモンゴメリー・クリフトイーライ・ウォラック)。原題THE MISFITS=はみ出し者たちの葛藤、生々しいぶつかり合いが胸を打つ。アーサー・ミラーは当時モンローの夫であり、故にモンローありきの物語なのだろうが、それにしても彼女の発する過剰なオーラが凄かった。周りの男たちは皆メロメロになってしまう。ヒューストンもモンローのあれやこれやを舐めるように撮っていて、お尻や胸元に向けた視線を強調するカメラには落ち着かない気持ちにさせられる。

 ヒューストンは自伝を読むとマッチョな変人、作る映画より本人の奇行の方が面白い人、という印象。しかし本作の生々しい迫力を見ると、こういうのもちゃんと撮れるんだよなあと。しかも男たちの時代遅れの価値観が敗北する話でもある。

 クラーク・ゲーブルの人間味、モンゴメリー・クリフトの漂わす無垢な雰囲気、イーライ・ウォラックのいじけ感。モンローと男たちを繋ぐセルマ・リッターの存在感(さっさと退場してしまう辺りがまたリアルだった)。

 

 続けて、ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』(2023年)。ウェス・アンダーソンの映画は凝り過ぎの映像が息苦しくて、どちらかといえば苦手。本作もカラフルな色彩と凝ったカメラワークで、演劇『アステロイド・シティ』の開幕までを追ったTVドキュメンタリー、演劇関係者のあれこれ、書割のような映像で再現された物語、と入れ子状態になった複数のエピソードが進行。良く出来てると感心する一方、どこか腑に落ちないところがあって、ノリ切れずに終わってしまった。

 前作『フレンチ・ディスパッチ』の偽フランスは楽しめたけど、本作の偽50年代アメリカは楽しめなかった。核実験をポップに描かれても困るというのもあるかな。『フレンチ・ディスパッチ』だって相当凝った映像だったわけで、今回ノレなかったのは映像の問題だけでは無いのかもしれない。宇宙人の来訪で街が封鎖、人々が軟禁され、子供たちが知力を尽くして反抗を試みる‥‥というメインストーリーだけなら楽しいのになあと。

 

 この日見た二本は実に対照的な作風で興味深かった。荒野の映像ひとつ取ってみてもこんなに手触りが違うのかと。