Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『ねじまき少女』(パオロ・パチガルピ) 

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)


 パオロ・パチガルピ『ねじまき少女』 The Windup Girl 上下巻読み終える。紹介には「ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞/キャンベル記念賞受賞!」の文字が躍る。話題になったのは知っていたけれど、上下巻の長さに腰が引けてしまったのと、タイトルにちょっと抵抗があって手を出せずにいた。先日出張の折に駅の書店で購入して読み始めたら、すぐにハマッてしまった。評判に違わず面白かったですよ。


 石油エネルギーが枯渇し、疫病が世界中を席巻した近未来。疫病に対抗するべく遺伝子改造した穀物を扱う<カロリー企業>が世界を支配している。タイは独自の遺伝子バンクを守り<カロリー企業>の支配から独立を保っていたが、種子バンクを管理する環境省と、<カロリー企業>との協調路線をとる通産省の対立が激化し、緊張が高まっている・・・という設定。


 小説の前半では、近未来のタイ・バンコクの生活がこと細かに描かれる。市場には遺伝子操作された果物が並んでいる。石油エネルギーが枯渇している為、工場の動力源は巨大ゼンマイ(遺伝子改造された象がゼンマイを回している)だ。道路には人力車が行き交う。猥雑な活気に溢れたスラム街。難民たちが押し込められた高層ビル。海岸では巨大堤防がかろうじて街の水没を食い止めている。全くの異世界ではなくて、現実と地続きになった世界の描写にはとてもリアリティがある。じめついた暑い気候が肌で感じられるようである。


 表題の<ねじまき>とは、日本製のアンドロイドのこと。主人公の<ねじまき少女>エミコは、日本企業に秘書として持ち込まれたが、帰国した主人に置き去りにされてしまった。タイでは<ねじまき>の所持が禁じられている為、不法滞在者として娼館に身を隠している。金持ち相手にいかがわしい仕事をこなしながら、ジャングルの奥地にあるという<ねじまき>の村に行く事を夢見ている。やがて、エミコの取った行動がバンコクを揺るがす大騒動へと展開してゆく。


 実のところ、本書は<ねじまき少女>エミコがメインという訳ではない。タイ・バンコクに蠢く腹に一物抱えた登場人物たちが織り成す群像劇である。<カロリー企業>からタイの遺伝子バンクについて調査するよう特命を受けている投資家のアンダーソン。アンダーソンのゼンマイ工場で働く、中国人の老人ホク・セン。環境省の検疫部隊「白シャツ隊」隊長で、「バンコクの虎」の異名を持つジェイディー。ジェイディーの副官を務めるカニヤ。遺伝子バンクの秘密を握る謎の男ギ・ブ・セン・・・。政情不安で混沌とした近未来のバンコクで、個性的な登場人物たちが己が生存を賭けて死闘を繰り広げるのだ。SF的な設定や世界観の構築の面白さもさることながら、本書の見所はやはり多彩な登場人物たちの魅力であろうと思う。


 個人的に一番感情移入出来たのは、中国人の老人ホク・センであった。ホク・センは中国人排斥運動が起きたマレーシアから逃れてきた<イエローカード難民>。もともと資本家であったホク・センは一族郎党皆殺しの目に遭い、体一つでタイのスラム街に逃げてきた。アンダースンの工場で働きながら、新型ゼンマイの設計図を奪い取ろうと虎視眈々と狙っている。<イエローカード難民>としての差別に耐え、衰えゆく身体に鞭打ちながらあの手この手でサバイバルを繰り広げるこの老人のしたたかな生き様には盛り上がった。ホク・センが最後に選んだ道は凶と出たのか吉と出たのか・・・。


 本書にぶち込まれた様々な要素が、全て描き切れていたとは思わない。登場人物たちの行く末ももっと描いて欲しかったところである。<ねじまき少女>の描写については、日本人としてはいささか気恥ずかしいところもある。しかし、運命(というか時代の変わり目の動乱)に抗う登場人物たちの熱い闘いは充分に楽しませてもらった。パオロ・パチガルピという奇妙な名前もちゃんと覚えたので、次回作にも期待したい。