Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

人は何故本を捨てられないのか


 『本で床は抜けるのか』(西牟田靖)を読んで思ったことの続きです。


 『本で床は抜けるのか』に登場する愛書家の方々の、ほとんど日常生活を犠牲にして本と本の間で暮らしているような生き方には強烈な憧れを覚えるけれど、現実的にはやっぱり不可能な話だ。作家やライター、編集者のような職業ならば本を所有することに必然性もあろうが。余程のお金持ちで広大な屋敷に住んでいるのでなければ、多くの市井の愛書家たちは家族の理解を得られる範囲で(あるいは闘いを繰り返しながら)折り合いのつけられる分量の本とつつましく暮らしているというのが実際のところであろう。自分もまたしかり。


 自分がモノに囲まれて生活していた独身時代に『本で床は抜けるのか』を読んだら、今よりも緊張感があっただろうなと思う。現在は一般的な家庭に比べれば書籍やCD・DVDの類が多い方ではあろうが、床が抜けそうになるほどではない。音楽は最早気に入ったものしか聴かないのでCDが部屋を圧迫するほど増えるということはないだろう。映画ソフトはまだまだたくさん所有しているけれど、気に入った作品は何でも手元に置いておきたいという欲求が無くなったのでこれも大丈夫だろう。書籍は、ある時期から割り切って図書館を積極的に利用するようにしたら馬鹿みたいに増えることはなくなった。そんな訳で、『本で床は抜けるのか』を読んで思ったのは「床抜け」問題の緊張感よりは、「何で本は捨てられないのだろう」ということだった。


 映画鑑賞は、持続する上映時間を経験することが重要な意味を持つ(映画は「上映時間の体験」であって、それは所有できない)。それに対して読書はもっと自由であり、自分のペースで味わうことが出来る。何年か前にロベルト・ボラーニョの『2666』という分厚い大長編に取り組んだときは、通勤電車の中で読むには重過ぎるし、じっくりと味わいたかったので寝る前に少しずつ少しずつ少しずつ読んでいたら、読み終えるまでに半年もかかってしまった。それでも大きな手応えと満足感が残った。そういった意味では映画鑑賞と読書は全く違うものだと思う。長い映画だからってチミノの『天国の門』を一日10分ずつ見て、2週間かけて見終えたとしてもそれは『天国の門』を見たとは言えないような気がする。本(特に小説)とはパーソナルな時間の過ごし方を共有するものであるが故に、あんなに手放すのが惜しいと感じるのではないかなと思う。それなら電子書籍でもいいんじゃないのという話だが、昨日も書いた通り書物は単なるデータではなく手にとって触れることの出来るモノであるが故に特別なのだと思う。『本で床は抜けるのか』でも似たようなことが述べられていたけれど、紙の本特有の重量感、紙の質感、ページをめくる肌触り、小説を固有の物質として認識できるところで一層印象深いものとなるのだと思う。


 ただし世の中にはもっと合理的なものの考え方をして、しかもそれを実行に移せるという人もいる。本を読み終えたらどんどん古本屋に売ったり他人にあげたり捨てたり出来る人。単にモノにこだわりのない人はいるだろう。読書は暇つぶしなんで繰り返し読んだりしないから捨てちゃうよという人もいるだろう。自分の頭の中が書庫なのだから、内容や知識は頭に入ったからわざわざ本を持ってる必要などない、という凄い人も世の中にはいるかもしれない。自分はなかなかそんな風には割り切れなくて、モノとしての本へのこだわりも捨てきれない。だからこれからも少しずつ少しずつ気に入った本をためこんでいくのだろうと思う。


2666

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