Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『死んでも何も残さない』(中原昌也)

死んでも何も残さない―中原昌也自伝


 中原昌也氏の新刊『死んでも何も残さない』読む。ミュージシャン、作家、映画評論家、画家、俳優など多彩な活動を続ける中原昌也氏の早過ぎる自伝(語り下ろし)。 


 例によって「文章を書くのが嫌でしょうがない」だの「文学賞もらっても何もいいことがない」だの「実家が貧乏で、親がケチ」だの愚痴めいた文書が延々続く。相当悲惨なエピソードもある。それでいて陰鬱な雰囲気にならないのは、妙なユーモアがそこかしこに感じられるからであろう。そのユーモアも、技巧としてのユーモアではなくて、意図せずして本人から滲み出て来るような。本書は自伝であるが、小説『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』『あらゆる場所に花束が・・・』等とほとんど手触りが変わらないのが面白い。


 東京青山生まれの中原氏は、「貧乏な都会っ子は不幸だ」と言う。貧乏だから「世界中のモノや情報が腐るほど視界に入っても、結局、手に入れることができない境遇」だったと言う。これについては色々と思うところあるなあ。かつて頭の中をか細いメディアでかき集めた知識でいっぱいにしながら、それを実際に目にするのは叶わず悶々としていた東北の田舎出身者としては。


 一番興味深いなあと思ったのは、<真の敵は?>という項だった。曰く「アメリカ人が好きな陰謀史観に対して、すべてノーと言わなければならない」「物語とは全て陰謀史観/関係妄想であり、妄想を否定する唯一の手段は、小説を書かないこと」「つまり、現実を物語として構築しないこと」。日々の生活においては、理不尽な事件、不条理な出来事がしばしば起きる。それを人は、事件の因果関係を調べたり想像したりして、納得できる「物語」として組み立てようとする。しかし理不尽な事件や不条理な出来事は、単に理不尽だったり不条理なだけであり、そこには何の因果関係も大きな「物語」も存在しない。そこに無理矢理因果関係や大きな「物語」を読み取ろうとするのは危険な事だ、というわけだ。下手をすると、国家や宗教といった、ありもしない他者の「物語」に取り込まれて搾取されてしまうぞ、という事なのだろうと思う。


 作家の視点を通して読みかえると世界はこんな風に見えるのか!というのが文学の醍醐味だとすれば、意外に自分と距離感は感じなかった。共感、と言うと大袈裟だけれども、先の「物語」禁止の話とか、「どう頑張っても人間は孤独だし、本当は何でもない」なんていう一文につい頷いてしまう自分がいる。


 さておき、本書はどこをどう切っても「中原昌也」そのものの面白い一冊であった。個人的には、中原氏は本人の思惑を超えて、息の長い活動を続けるのではないかと思うがいかがなものか。作家なのかミュージシャンなのか肩書きは別として。