Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『千年紀の民』(J・G・バラード)

千年紀の民 (海外文学セレクション)


 J・G・バラードの『千年紀の民』Millennium People(2003年)読む。


 ヒースロー空港で爆弾テロが発生、精神科医デーヴィッドは先妻ローラが巻き込まれて死亡した事を知る。テロの犯人を捜し出す為、デーヴィッドは様々な革命運動に身を投じてゆくが・・・。


 中産階級の平穏な生活を維持するのに欠かせない暴力という装置についての考察は、『殺す』(1988年)辺りに始まり、『コカイン・ナイト』(1996年)、『スーパー・カンヌ』(2000年)と続くバラード晩年の主要なテーマであった。そのテーマと9.11同時多発テロがクロスして生み出されたのが『千年紀の民』であろうか。


 『スーパー・カンヌ』まではある種の閉鎖空間(高級住宅街やリゾート地など)を舞台としていたが、本作においては暴力の及ぶ範囲が一気に拡大している。作中では「理由の分からない事件こそが印象に残る」というような事が語られ、レンタルヴィデオ店や美術館といった一見政治的な意図が見えない空間までがテロの標的となるのだ。


 高級住宅街に住む人々が安穏とした生活を拒否することで革命を起こすという展開、カリスマ的な女性リーダー、事件を影で操作する医師の存在など、ここ数作でお馴染みとなったモチーフが再登場する。一応は爆弾テロの真犯人を探すという明快な物語があり、テクノロジー三部作(『クラッシュ』『ハイ-ライズ』『コンクリートの島』)のようなとっつきにくさは無い。敢えて言うならば一風変わったミステリ小説のようである。これもここ数作に共通したスタイルで、最早SF小説とは呼べない作風になっている。シンプルでかつ深いという、バラードが晩年に辿り着いた境地と言えそうだ。(円熟、というのとは大分違う)


 主人公デーヴィッドはテロで亡くなった先妻の面影を追い、妻、革命の女性リーダーら複数の女性の間をさ迷い歩く。犯人探しや理不尽な暴力への考察と言った部分も面白いが、個人的には、女性に置き去りにされた中年男の話として興味深く読んだ。


 思えば、初期作品においてバラードは、大震災の後のような世界を彷徨する人間たちを描いてきた。破壊された小学校の屋根に漁船や家屋が乗っているシュールな光景、大量の車や飛行機が津波に流されてゆく仙台空港の映像など、正にバラード的と言えそうなものであった。もしバラードが生きていたら、「沈んだ」り「燃え」たりして大変な様相を呈した今回の大震災を見て、どんな物語を紡ぎ出しただろうか。