Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『斧』(ドナルド・E・ウェストレイク)

斧 (文春文庫)

斧 (文春文庫)


 ドナルド・E・ウェストレイク『斧』The Ax(1997年)読了。


 リストラされた中年男が、再就職を目指して必死に努力するも叶わず、ついには同業種を志望するライバルを次々殺害してゆくが・・・というお話。粗筋だけ読むとブラックユーモア路線かと思ってしまいますが、描写はあくまで淡々としてシリアス。決して計画通りに進まない素人犯罪の緊張感が生々しく描き出されています。新しい仕事をマスターするように、主人公は失敗を繰り返しながら次第に殺しの段取りを覚えていきます。主人公の行為はどう考えても許されるものではないけれど、殺人を重ねる毎に、壊れかかっていた夫婦関係や親子関係が修復に向かい、主人公は一歩また一歩と再就職に近づいていく(ように描かれている)のです。そう、ウェストレイクの視点は完全に主人公(加害者)に同調しています。働くお父さん頑張れ!っていや真面目にそういうお話なんですよねこれは。


 ちなみに題名の「斧」は凶器ではなくて、職場のクビ切りのことですね。この年齢になると、このお話には単なる娯楽小説として読み飛ばせない緊張感があったりします。


 ドナルド・E・ウェストレイクは、リチャード・スターク、タッカー・コウなどいくつものペンネームを使い分け、多作を誇るミステリー界の巨匠です。軽妙な犯罪小説を得意とし、不運な泥棒ドートマンダーを主人公とした一連のシリーズや、リチャード・スターク名義の悪党パーカー・シリーズが特に有名です。本作『斧』は、スラップスティック調のドートマンダーものとも、ハードなアクション満載のパーカー・シリーズとも全く違った味わいの作品でありました。紹介文でジム・トンプソンなどが引き合いに出されていて何で?と思いましたが、犯罪者の歪んだ主観でお話が進んでいく辺り成程という感じです。単なるミステリー、サスペンスというよりは、ノワールの世界に踏み込んだ世界観でとても面白い小説でありました。ウェストレイクの作品は、これまでドートマンダー・シリーズと悪党パーカー・シリーズを数作読んだだけだったので、これを機に他の作品も読んでみることにします。