デヴィッド・フィンチャー監督最新作『ザ・キラー』鑑賞。冷静沈着なプロの殺し屋(マイケル・ファスベンダー)の仕事ぶりを描くサスペンス・アクション。脚本は『セブン』のアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。
これ殺し屋が暗殺を遂行する話ではなくて、暗殺失敗の落とし前を着ける話だった。ほとんどそれだけと言ってもいいくらいのシンプル極まりない内容で、ストーリー自体はフレンチ・ノワールやイタリアン・アクションでこんな映画山ほどあったのではと既視感が半端なかった。
見どころは、フィンチャーならではのディティールの細かさと映像デザインの面白さだ。色彩を抑えた冷たいヴィジュアルと音響はさすがの破壊力。特にトレント・レズナー、アッティカス・ロスの重低音とザ・スミス(の断片)が鳴り響くサウンド・デザインには痺れた。主人公の殺し屋は何故かザ・スミス(そう、モリッシーのザ・スミス)をずっと聴いている。だからといって曲が殺し屋の内面を代弁しているようにも見えず、不思議な使われ方だった。そもそも殺し屋とザ・スミスという組み合わせの異物感が凄い。
殺し屋の待機時間と狙撃失敗を描く第一章パリ篇がとても良かった。あのタッチで最後まで行ってくれたら、他にない殺し屋映画になっただろうなと思う。暗殺失敗の落とし前を着ける後半は、ディティールの面白さはあれど、案外普通のアクション映画だった。ラストなんてハッピーエンドだと思うけど、それでいいの?と思っちゃったなあ。アラン・ドロン主演なら間違いなく死んでるよねラストで。
個人的な好みで言うなら、第一章のタッチで二時間、しかもモノローグは十分の一にカットする。仕事の哲学を繰り返すモノローグと映し出される実際の行動が段々とズレてきて、最後は死ぬよね、やっぱり。なんならモノローグ一切なくてもいい。それじゃメルヴィルの『サムライ』か。
しかし最近何で洋画も邦画も殺し屋だらけなんだろう。