Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『ヒューゴの不思議な発明』(マーティン・スコセッシ)


ヒューゴの不思議な発明』 HUGO


 監督/マーティン・スコセッシ
 原作/ブライアン・セルズニック
 脚本/ジョン・ローガン
 撮影/ロバート・リチャードソン
 音楽/ハワード・ショア
 出演/エイサ・バターフィールドクロエ・グレース・モレッツベン・キングズレージュード・ロウサシャ・バロン・コーエン
 (2011年・126分・アメリカ)


 マーティン・スコセッシの最新作ヒューゴの不思議な発明見る。最寄りのシネコン、MOVIX利府のレイトショーにて。


 スコセッシといえば、「執着心に囚われた男が破滅に突き進む映画」というイメージだ。『タクシードライバー』『レイジングブル』『グッドフェローズ』、オスカー受賞作の『ディパーテッド』といったバイオレントな映画群がすぐに思い浮かぶ。今回は子供に見せる映画を撮りたかったそうで(『オリバー・ツイスト』の時のポランスキーも同じような発言をしていたっけ)、スコセッシのフィルモグラフィーの中でもかなり異質なジャンルと言えるだろう。予告編を見ると『ハリー・ポッター』ばりのファンタジー映画のようだ。実際に見てみると、軽快なオープニングから、亡き父が残した奇妙な機械人形を修理するべく走り回るヒューゴの奮闘ぶりを描く中盤まではとても楽しめた。孤独な少年、読書好きの美少女、ハート型の鍵、過去を隠した老人、怪しげな本屋(何とクリストファー・リーだ)、時計台内部にある秘密の部屋、謎の機械人形、等々、ファンタジー映画らしい要素も満載されている。


 が、後半の展開にはかなり違和感を覚えた。機械人形のメッセージに導かれたヒューゴは、おもちゃ屋の老主人へと辿り着く。実は老主人の正体は・・・という風に展開してゆくが、そこには最早魔法や異世界が登場する余地は無い。ファンタジーはファンタジーでも、これは映画マニアによる映画マニアのためのファンタジーではないか。映画創世記のリュミエール兄弟ジョルジュ・メリエス、グリフィス、チャップリンキートンやロイドといった伝説の映画たちを、自らの作品に取り込んでみたい、しかも最新の3D技術を駆使して・・・というスコセッシの野心が華々しく展開するのだ。スコセッシの立ち位置は主人公ヒューゴではなくて、後半に登場する映画研究家の方だ。自分の存在意義を探して機械人形の修理に熱中する主人公ヒューゴの影がどんどん薄くなってしまうのは当然なのかもしれない。


 こちらも映画マニアなので、映画創成期の撮影風景、映画館の様子などが描かれるのはとても興味深い。特にメリエスのスタジオを再現した場面には興奮した。なんだけど、後半の展開は何だか強引な感じがしたなあ。ジョルジュ・メリエスへのオマージュ大会も場違いな気がしてならなかった。観客(と主人公)置いてきぼりで、作り手が勝手に盛り上がってるみたいな。


 スコセッシとヒューゴの視点がきちんと一致した場面があった。イザベル(『キック・アス』のクロエ・グレース・モレッツ)が映画を見たことがないと知ったヒューゴは、彼女を劇場へと連れて行く。上映されているのはハロルド・ロイドスラップスティック・コメディ『ロイドの要心無用』。ジャッキー・チェンが『プロジェクトA』で再現して見せた時計台の場面だ。ロイドのアクロバティックなアクションに大喜びのイザベル。それを横目で見て「やった、ウケてる!」という顔のヒューゴ・・・。あそこだけは、スコセッシとヒューゴが一体化した好場面だと思う。


 『ハリー・ポッター』的なファンタジー映画と誤解するのは邦題のせいもあるかなあと思う。ヒューゴは修理はするけど別に発明しないし。『ヒューゴと不思議な人形』『ヒューゴの不思議な冒険』くらいの邦題で良かったんではないかなと。