Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『妻を殺したかった男』(パトリシア・ハイスミス)

 パトリシア・ハイスミス『妻を殺したかった男』THE BLUNDERER(1954年)読了。ハイスミスの長編デビュー作『見知らぬ乗客』(1950年)と『太陽がいっぱい』(1955年)の間に発表されたもので、ごく初期の作品のひとつです。これがまた凄い作品でありました。いやハイスミスは凄い作品だらけなんだけど。この邦題にしてまさかこんな話かよと予想を超えるインパクトがありました。


 本書にはキンメルとウォルターという「妻を殺したかった」2人の男が登場します。物語はキンメルが妻を殺害する場面から始まります。キンメルは映画を見ていることを装って劇場を抜け出し、外出していた妻をバス停で待ち伏せて、暗がりで殺害します(ここはハイスミスにしては珍しいストレートな暴力描写で迫力がありました)。キンメルは映画館のアリバイを使い、捜査の手を逃れます。


 続いてもう一人の男、ウォルターは妻を愛していますが、妻の神経質でエキセントリックな性格には嫌気が差しています。ウォルターは新聞でキンメルの事件を読み、「これは妻殺しの完全犯罪に違いない」と直感します。キンメルの事件にとり憑かれたウォルターは、新聞の切り抜きをスクラップしたり、キンメルが経営する書店に客を装って会いに行ったりします。ウォルターと妻の関係、ウォルターとキンメルの腹の探り合いは、ハイスミスらしいヒリヒリするような心理描写で読ませます。


 ある日、ウォルターの妻が変死します。ウォルターは殺していませんが、キンメルの周囲をうろうろしていた事が警察に知れて妻殺しの疑いをかけられてしまいます。ここから物語は「妻を殺したかった」2人の男を巻き込んで意外な方向へと展開します。最後は、実際手に掛けようが掛けまいが関係なく「妻を殺したい」などと願った奴はこんなザマだよ、と言わんばかりの悲惨極まりない結末を迎えます。しかも、本書の原題はTHE BLUNDERER(まぬけ、とんま、ヘマをやる人)というんですよ・・・。うわあ・・・。ハイスミス33歳の時の作品です。


 2人の男の心理的な駆け引きというのはハイスミスが繰り返し描いたモチーフです。長編デビュー作『見知らぬ乗客』からして、交換殺人を持ち掛ける男のストーカー的な欲望と、それに巻き込まれて殺人を犯してしまう男の葛藤を描いた心理劇でありました。本作は、妻を殺した男に妻を殺したい男がストーカー的に付きまとうというお話で、正にその系譜の作品です。2人の男の心理的な葛藤こそが見どころであり、妻を殺すまでが見どころではない(犯罪の成就が主眼ではない)ところがポイントですね。


 ハイスミスが並みのミステリー作家と違うのは、底意地の悪さが想像を超えているというか、ヌルいところが一切無いんですよ。嫌なシチュエーション、嫌な人物、嫌な人間関係をとことんまで描いて、最後は予想を超えた地点まで辿り着いてしまいます。よくぞここまで描いた、と。それ故に、嫌な話だなあと思いつつ読むのを止められないのです。



妻を殺したかった男 (河出文庫)

妻を殺したかった男 (河出文庫)