Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

007を見直して思ったこと


 007/ジェームズ・ボンドと言えば、スパイ映画の代名詞であり、世界的な人気アクションシリーズです。主人公の造型や音楽などスパイ・アクションの定型を作り、数限りない亜流作品、パロディを生み出しています。歴史あるシリーズだけに、熱狂的なファンも多いと思います。自分が映画ファンとなった時には既に「娯楽映画と言えばコレ」というような位置付けになっていました。世代的にはボンド=ロジャー・ムーアの時代で、シリーズで最初に見たのは『黄金銃を持つ男』(1974年)です。中学生の頃、TV放映された吹替版でした。最初に映画館で見たのは、やはりボンド=ロジャー・ムーアの『オクトパシー』(1983年)です。


 実を言うと、自分は007シリーズのファンではありません。初めて『黄金銃を持つ男』を見た時など「絶対に面白いだろう」と期待に膨れ上がった頭で見たのですが、妙に小ぢんまりとした映画でガッカリした覚えがあります。以降、ボンド=ショーン・コネリーの作品を見ても何がいいのか良く分からず、何で「娯楽映画の代表」みたいに扱われてるのかなあと毎回思っていました。ショーン・コネリーはニヤけたおっさんで格好悪いし、アクションはもっさりしていて面白くないし、と。不満覚えながらも、機会があれば必ず見てはいた訳ですが。


 今年に入ってBSで007シリーズ(吹替版)を連続放映しているので、いい機会と思い順番にチェックしています。ショーン・コネリー主演の第1作『ドクター・ノオ』から始まって、先日ピアーズ・ブロスナン主演の18作目『トゥモロー・ネバー・ダイ』まで見終えました。初期〜中期007を順番に見直してみて、自分の中で「007とはこれ」という定型イメージとなっているのが『私を愛したスパイ』だったということに気がつきました。個人的には、ボンド=コネリー時代の作品はやはり好みではないなあと思いましたね。どんなピンチでも余裕綽々のボンド=コネリーは「あれこそボンドなのだ」という声が多数なのは充分承知してますが。ボンド=ムーア時代の作品も、コミカルな要素が増したせいもあり、どこか真剣味を欠いているところがいまひとつ好きになれない要因です。そもそも007とは荒唐無稽なものと分かってはいるのですが。いわゆるアクション映画として一番面白かったのはボンド=ティモシー・ダルトンの『リビング・デイライツ』でした。


 007再訪で驚いたことがあって、それは何かと言うと、ほとんど何も覚えていなかったことです。『ドクター・ノオ』や『ロシアより愛をこめて』とか何度も見ているはずなのに。ストーリー展開は勿論、ワンシーン、ワンカットたりとも「ああそういえば見たことある」という記憶を刺激されるところがありませんでした。さすがにボンド=ピアーズ・ブロスナンになってからは封切り時に映画館で見ていることもあって全く白紙状態ということはありませんでしたが、ショーン・コネリー版、ロジャー・ムーア版はわずかな例外を除いてまるっきり初めて見たような感じでした。もとより007シリーズに思い入れが無いということもあるのでしょうが、いくら何でもワンショットすら覚えていないのはどういう事かといささかショックを受けました。


 「覚えている」と感じた場面(『ドクター・ノオ』でコネリーと白ビキニのウルスラ・アンドレスが出会う砂浜のシーン、『ゴールドフィンガー』で全身金粉を塗られた美女の死体、等々)は、映画雑誌などで繰り返し繰り返し紹介されているのを目にしているから「覚えている」だけで、映画そのものを見て印象に残っている訳ではないなと感じました。物語の展開やアクションの見せ場に至っては、ほとんど何も覚えていなくて、でも映画には新鮮味が無い(既視感がある)という感覚の繰り返し。最初に劇場で見た『オクトパシー』なんて、見直してみると盛りだくさん(ボンドがピエロに扮したり、クライマックスでサーカスの曲芸団が乱入したり、ボンドガールが妙齢のモード・アダムスだったり)な楽しい作品なんですが、これっぽっちも覚えていませんでした。自分が年食って忘れてしまったのか、それとも「007とはそういうもの」なのか・・・。(続く)