Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

ふたつの『アンダーカレント』

 

(以下の記事は結末部分に触れていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください)

 

 今泉力哉監督『アンダーカレント』鑑賞。9月はいろいろあって映画館に行けず、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』以来約5週間ぶりの劇場鑑賞となった。今回も時間が無くて、近所のシネコンで予備知識もないままに邦画新作という自分としては珍しいチョイスでの鑑賞となった。今泉監督作品をちゃんと見るのは初めて。

 

 主人公かなえは父亡き後、家業の銭湯を継いで夫と切り盛りしていた。しかし突然、夫が失踪してしまう。しっかり者(に見える)の主人公(真木よう子)、失踪した夫(永山瑛太)、銭湯に住み込みで働くことになった堀(井浦新)、三者三様の心に秘めた思いが次第に浮かび上がる。

 

 本作は人間の心の奥底に流れる(Undercurrentな)もの、他人には話すことが出来ない想いや記憶についての物語だ。非常に丁寧で誠実な作品だと思うけれど、いささか平板で映像的魅力に乏しい。今泉監督の演出は微妙なニュアンスを掬い上げた会話劇に冴えを見せる。俳優たちのアンサンブルは見事だと思うけれど、芝居どころが見せ場になるのはいかにも邦画的であって、自分の好みでは無かったかな。

 

 本作を見て直に連想したのは、マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』(失踪者の主題と、主人公の喪失感の理由が次第に明らかになる作劇)と、ニコラス・ローグ『赤い影』(水に浮かぶ少女の遺体のイメージ、夫婦のすれ違いの主題)だった。直接的な引用関係があるという訳ではなくて、それら名作を想起する位のポテンシャルがあったということで、それ故にもう少し映像的な面白味があればなと残念だ。恐らくビル・エヴァンスジム・ホールによるアルバム『Undercurrent』(1962年)をイメージのベースに、銭湯の湯船、かなえと堀が立ち尽くす湖、散歩道の脇に流れる下町の溝川、悲劇があった湿地、終盤の海辺など「水」を要所に配置して見せる意図はわかるものの、やはり『赤い影』の圧倒的な水のイメージと悲劇性には及ばない。

 

 そういった映像面のイメージ喚起力の弱さを補っていたのが細野晴臣の音楽だった。ガレル『愛の誕生』のジョン・ケイルのごとくそっと映画に寄り添う静謐なサウンドがとても良かった。

 

 辛気臭い表情の登場人物が右往左往する中で、アメリカンなキャラ立ちの探偵(リリー・フランキー)と煙草屋のオヤジ(康すおん)が出てくるとホッとした。特に失踪した夫を探すヤマサキ探偵が出色の面白さで、今更ながらリリー・フランキーの上手さに驚く。(後で原作読んだら絵柄がソックリだったんで笑った)

 

 映像的な見せ方にはいろいろ気になるところがあって、一番モヤったのは終盤のバス停の場面だった。銭湯を去る決心をした堀が主人公に別れを告げずに街を出ようとする。そこを煙草屋のオヤジに見つかり、堀の正体と胸に秘めた思いが明らかになる。オヤジが去った後、バス停にポツンと座った堀を通りの向かいから捉えたショット。そこにバスがやって来て、堀の姿を覆い隠す。バスが出発すると、バス停にはまだ堀がポツンと座っていた・・・。えっ、そんな繋ぎはないだろと思った。そこはバスで堀の姿が隠れたところでカットして、乗ったか乗らなかったか次に引っ張るところでは・・・。文章では違和感を伝えきれていないかもしれないが。

 

 

 思うところ多かったので、豊田徹也の原作コミック(2005年)も読んでみた。国内外で高い評価を得ているという原作、確かに面白かった。映画はかなり原作に忠実で(カラオケ場面の選曲まで)、テーマも丁寧に救い上げていることは良く分かった。

 

 上記のバス停の場面を確認すると、見せ方は全く同じだった。バスが出発すると、バス停にはまだ堀がポツンと座っている。しかし原作では堀が立ち上がり、何処かへ歩き出すところで終わっている。この終わり方ならあの見せ方で良いんだ。でも映画はその後を見せる。芝居どころを見せ場にしたいという監督の志向だと思うけれど、堀の告白をクライマックスにするのは一見感動的だけど野暮ったいなと思う。説明過多なんだ。この結末に限らず全体的に言えることだが、なんなら原作の方が省略が効いていて映画的じゃないかと思った。また、映画に比べると原作の方がユーモラスな描写が多く、後半の悲劇性が際立つようになっている。

 

 映画オリジナルの描写として良かったのが、銭湯にひょっこり姿を見せるアマガエルのエピソード。カエルの寿命ってどれくらいなのかな、こいつは去年来たやつと同じなのかな。あれはとても好きだった。