Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『殺しあい』(ドナルド・E・ウェストレイク)

殺しあい (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

殺しあい (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)


 ドナルド・E・ウェストレイク『殺しあい』Killing Time(1961年)読了。


 舞台はニューヨーク州の地方都市。私立探偵のスミスが深夜のダイナーで殺し屋に襲われる。政治の腐敗を告発する組合が街に乗り込んで来ることになり、街の権力者の誰かが、裏事情に通じたスミスの口封じを目論んだのだ。スミスは難を逃れるが、組合の調査員が街に到着すると、執拗に命を狙われる。緊迫する街で、スミスは実力者たちと渡り合いながら真犯人を探すのだが・・・というお話。


 主人公がハイスクールの近くを通り、色気づいた若者たちを「サル・ミネオやブリジット・バルドーのような」と表現する場面が出てきます。サル・ミネオにブリジット・バルドーって・・・と思いますが、本作はウェストレイクの長編第二作目、1961年(今から53年も前!)の作品でした。初期のウェストレイクは正統派ハードボイルド・タッチを志向していたようで、後年の軽妙な作風とは全く異なっています。汚職にまみれた地方都市を舞台に、対立する組織の間で私立探偵が孤独な戦いを強いられるというお話は、ダシール・ハメットの名作『血の収穫』を髣髴とさせます。


 興味深かったのは、主人公である私立探偵スミスの人物造型が、ハメット/コンチネンタル・オプやチャンドラー/フィリップ・マーロウロス・マクドナルド/リュー・アーチャーといったハードボイルド派の探偵たちとは随分異なっていることです。主人公スミスが暮らす街は、政治家や財界人といった権力者たちの汚職とその隠蔽が行われており、スミスもその一端を担うことで「モービルのような」危ういバランスを保ちながら平和な日常を維持しています。そのバランスが脅かされた時、裏事情に通じたスミスが狙われるのです。普通ならば、スミスは命を狙われたり恩人を殺された事で正義に目覚め、不正を告発しようとする展開になるでしょう。ところが、他所の街からやって来た探偵たちとは違って、その街のしがらみの中で生きてきたスミスの行動目的は、ひたすらに街のバランスを保つことです。主人公を突き動かすのは「正義感」や「復讐」などではありません。「街のバランスを保つ」のだという極めて割り切った職業意識で行動するのです。この辺がとても現代的で、一味違った持ち味となっています。


 クライマックスでは、題名に恥じない大銃撃戦が展開します。登場人物の大部分が銃弾に倒れる激烈な描写の連続は読み応えがあります。スミスは死線をかいくぐり真犯人を突き止めるのですが・・・。割り切った職業意識で行動し続けたが故に、スミスは皮肉な最後を迎えるのでありました。


 私立探偵を主人公とした本作は単発作品であり、先述のハメット/コンチネンタル・オプ、チャンドラー/マーロウ、マクドナルド/アーチャーのようにシリーズ化されることはありませんでした。正統派ハードボイルドを目指していたと思しき若きウェストレイクが、何故ハードボイルド私立探偵ものを書かなかったのかといえば、やはり「正義の騎士」よりも、自分の流儀に忠実な悪党どもを描く方が性に合っていたのでしょう。


 余談になりますが、文庫の表紙(銃弾を受けてのけぞる男を描いたイラスト)が・・・ちょっとゴダールっぽいんですよ。ゴダールの某映画のスチール真似たんじゃないかと。気のせいですかね。