Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『密やかな結晶』(小川洋子)

 

 

 小川洋子『密やかな結晶』(1994年)読了。著者の作品を読むのは初めて。

 

 舞台は様々なものの記憶(概念)が少しずつ消えていく島。フェリーが、香水が、鳥が、薔薇が、人々の記憶から消えていく。中には記憶を保ち続ける者や、消えてしまった物を大事に隠し持つ者もいるが、島の秘密警察がそれらを厳しく取り締まる。主人公は作家で、「もし言葉が消えてしまったら、どうなるのだろう。」と不安を抱えて生きている。やがて小説が消える日がやってきて、本が燃やされ図書館に火が放たれる・・・。大事なものを失う悲痛な感覚が全編を貫く和風ディストピアSFの傑作。物語の終盤では「物」だけでなく、もっと大事なものが消えてしまう。この踏み込んだ描写がまた恐ろしかった。

 

 本書は以前某古本屋で購入した一冊。いわゆる「痕跡本」で、途中のページに感想が書かれた付箋が貼り付けられていた。たいそう達筆で、年配の方だったのかなと思われる。曰く「今だとケイタイ、パソコン、ロボットに人間としての心と大切な物を少しずつ失ってゆく事を書いているような気がします」と。

 

 本書は現代社会における人間性の喪失、個々の感情の喪失、それらを無抵抗に受け入れる事へ警鐘を鳴らす寓話であるが、例えば認知症の感覚を表現した物語として読むことも可能か。いかにもSFっぽい硬い文章ではなく、一見普通小説のような優しい文章で綴られているのがとても効果的だった。