Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『無声映画のシーン』『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス)

 

 2017年から2020年にかけての約4年間ほどだろうか、全く読書が出来ない時期があった。仕事が忙しくて時間が無いのに加えて、何故か小説を読む意欲が湧かず、本を開いてみても集中力が無くて物語に没入する事が出来ないのだった。娘が小学校に上がり、毎週図書館に連れて行くようになって、一緒に児童書など読むうち次第に小説を読む意欲が戻って来た。その後はペースを取り戻し、現在は週一冊くらいのスピードで順調に読む進むことが出来ている。毎週日曜日には娘を習い事に送り届けて、習い事が終わるまでの待機時間2時間を喫茶店で読書の時間に当てている。後は通勤電車と、寝る前の30分ほど。通勤用の文庫本、自宅で読む小説と映画関連の書籍。常に三冊を同時進行で読んでいる。

 

 それはさておき。

 

 スペインの作家フリオ・リャマサーレス無声映画のシーン』(1994年)読了。作者について全く予備知識は無かったが、題名と表紙が気に入ったので手に取ってみた。母親が死ぬまで大切にしまい込んでいた30枚の写真。語り手は写真に切り取られた情景から、炭鉱町で過ごした少年時代を回想する。自伝小説風の連作短編集だ。

 舞台はスペインの炭鉱町。炭鉱町といえばジョン・フォードわが谷は緑なりき』、ジョー・ジョンストン遠い空の向こうに』等を思い出す。それらの映画がイメージの助けになった。もっとも『無声映画のシーン』で描かれる炭鉱町はもっと危険で荒々しい。地下坑道の爆発や陥没、若い頃から地下で労働に従事して肺をやられた男たち。そんな粗暴で過酷な炭鉱町の暮らしが生き生きと描かれる。町には娯楽が少なく、月一回の給料日前後だけは活気づく。町に一軒の映画館。コンポステーラの楽団で盛り上がるお祭。写真に焼き付けられた町の人々、子どもたちの姿・・・。読みながらこちらも追憶に誘われて、自分の家族や少年時代をあれこれ思い出し、スペインの炭鉱町と日本の北国が地続きになったような不思議な感慨に捉われた。

 

「写真がある限り彼らは生き続けていくだろう。なぜなら、写真は星のようなもので、たとえ彼らが何世紀も前に死んだとしても、長い間輝き続けるからだ。」

 

 『無声映画のシーン』がとても好きだったので、続けて長編『黄色い雨』(1988年)も読んでみた。スペイン山地の廃村で最後の住人となった男が死を迎えるまでを描く。一種のサバイバル小説であり、死にゆく男の内面を描いた詩的な小説でもある。厳しい自然の中で朽ちていく村。名前の無い雌犬の哀れ。妻子の墓の前にやがて自分が横たわるであろう墓穴を掘る男。「黄色い雨」=死の影に色付いた村のイメージ。毒蛇。ロープ。家族の亡霊・・・。自分は両親を残し故郷を離れた側なので、辛い物語でもあった。

 

「自分もすでに死んでいて、その後に経験したことはすべて沈黙の中に消えてゆく記憶の、最後の木霊でしかないのだという、漠然としたとらえどころのない思いを抱いていた。」

 

 訳者あとがきによると、リャマサーレスは映画の脚本も手掛けているようだ。他の作品と併せてチェックしていきたいと思う。