Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

『一人称単数』 (村上春樹) 

 

 久々に村上春樹を。短編集『一人称単数』(2020年)読了。

 

 『一人称単数』には8つの短編が収録されています。『石のまくらに』。大学生の「僕」は同じバイト先の女性と一夜を共にする。彼女は短歌を作っていると言い、自作の歌集を送って来る。その一夜以来彼女には会っていないが、彼女の歌集の短歌だけがずっと手元に残っている。

 『クリーム』。浪人生の「僕」は、子供の頃一緒にピアノを習っていた女の子から演奏会の招待状を受け取る。演奏会の会場に行くと、何故か建物の門は閉ざされていて人気が無い。途方に暮れた「僕」は付近の公園で謎の老人と出会う。

 『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』。「僕」は大学時代、大学の文芸誌にチャーリー・パーカーが1960年代まで生き延びて『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というレコードを出したという架空の記事を書いた。15年後、仕事でニューヨークを訪れた「僕」はレコード店で、存在する筈のない『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』のレコードを発見する。

 『ウィズ・ザ・ビートルズ』。ビートルズが大ブームだった時代、高校生の「僕」は、初めてできたガールフレンドの家を訪ねる。約束をしていたのに何故か彼女は不在で、彼女の兄と会話を交わす。兄は記憶が飛んでしまう疾患を持っていることを語る。18年後、「僕」は渋谷で偶然彼と再会するが・・・。

 

 ここまで読んで、どれも高校時代や大学時代の過去を回想する話ばかりで、内容もあんまり特別感の無いものばかりで戸惑いました。次の『ヤクルト・スワローズ詩集』もヤクルト・スワローズと神宮球場に関する思い出話。ここでの語り手「僕」は、村上春樹と実名で登場します。そのせいで、本短編集に収録された作品の「僕」は作者自身で、全て本人の体験談のように見えてきます。

 それ故に、クラシックの演奏会で知り合った女性との奇妙な交流を描く『謝肉祭(Carnival)』も作者自身の話として読み始めました。そうしたら「F*はこれまで記憶している中で最も醜い容姿をした女性だった」という書き出しでギョッとしてしまった。この話の終盤で描かれる思い出話(かつて一度だけデートした女の子の記憶)とか、女性の容姿に対するコメントはもの凄く居心地が悪い。とても村上春樹っぽい気がします。

 

 次の『品川猿の告白』はそこまでの収録作品と毛色が違いますが、ひなびた温泉宿で言葉をしゃべる猿と出会い身の上話を聞くという話で、ユーモラスだけどちょっと怖いファンタジーは作者の得意なタイプの作品。

 

 最後に収録された『一人称単数』(本短編集のための書下ろし)がなかなかの問題作でした。語り手の「私」は、めったに着ないスーツを着用したので外出したくなり、とあるバーに入ってお酒を飲みながら読書をしていた。すると見知らぬ女性に因縁を付けられる。以前彼女の友人が「私」に「水辺で」酷いことをされたのだという。身に覚えのない「私」は人違いだろうと思うが、誤解を解くことなく席を立って店を出てしまう。街の風景はそれまでとすっかり様相を変えてしまった・・・。

 「私」がスーツに身を包み夜の街へ出て、バーでギムレットなぞ飲みながらミステリーを読むまでの前半部。初期の村上作品でお馴染みの生活感のない独身者が描かれます。そこに話しかけてくる女性の容赦ない言葉(「そんなことをしていて、なにか愉しい?」「都会的で、スマートだとか思っているわけ?」)は、初期村上作品の男たちへの強烈な(自己)批判のようだ。「私」は女性の誤解を解こうとせず、席を立ってしまう。「私」は女性との会話の中から、自分の中に潜む醜いものが引きずり出されるのではないかと怯えているのだ。『一人称単数』は短編なので、物語はそこでふっつりと終わってしまいます。正も負も、村上春樹作品のエッセンスをダイジェストしたような印象もあります。思い出話ばかりの短編集で、最後はこの寂寥感溢れる陰気な書下ろし作品で締めくくるという作者の心情はどういうものなんだろうか。

 

(村上作品について書いた、過去の記事です。https://kinski2011.hatenadiary.org/entry/20160726/p1  https://kinski2011.hatenadiary.org/entry/20160728/p1  https://kinski2011.hatenadiary.org/entry/20150907/p1  https://kinski2011.hatenadiary.org/entry/20130621/p1 )